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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年4月19日ほか

月のうち20日は私が彼を訪れるか彼が私の宅に来るか、それともどこかで落ち合うかして行を共にすることになるのである。
――という安原のコメント通りであるならば
中原中也&安原喜弘の交友は「凄まじい」ばかりと感じざるを得ません。
 
 
大学を卒業して就職していない安原は
まさしく「大学は出たけれど」の世相の象徴のような存在なのでしたか?
 
詩一本で食っていこうとする詩人と似ていて
ウマが合ったのでしょうか?
きっとそれだけのことではありません。
 
 
帰京した安原との「月20」の付き合いがはじまりました。
その頃の詩人の手紙そのものをじっくり読んでみます。
安原は、下目黒に住んでいます。
 
 
「90 4月19日 安原喜弘宛 葉書」
 
金子ありがとうございました
本朝ランボオの翻訳お送りしました
山口宛のお手紙難有一昨日くにより廻送して来ました
春は、悩ましう候        怱々
 
 
4月新学期ということもあるのか
詩人の活動は活発にはじまっています。
 
「金子」は誰のことか、人名以外ではなさそうですから
詩人・金子光晴の(本の)ことだとすれば
面識のなかった二人の詩人がここですれ違っていたことになりますが
確定できるものはありません。
 
 
「91 5月2日 安原喜弘宛 葉書」
  表 下目黒842 安原喜弘様
  東京駅にて 中也 2日夜
 
 先日は失礼しました
 これから一寸京都へ行って来ます。高森と一緒です。
 立命館の友達が法律事ム所を開き、それの披露式が土曜日にあります、それに是非来いといいますし、旁々(かたがた)行ってきます。
 京都で英倫にあったら詫びを云います。
 万が一御用の節は
    京都市河原町丸太町上ル三筋目西入
        電、上、4678 田中伊三次気付
 ゆらりゆらりと、しずかに飲んできます
                   さよなら
 
 
田中伊三次は、やがて衆議院議員そして法務大臣になる人物、
英倫は、安原の成城高校の同級生、加藤英倫。
 
 
「92 5月7日 安原喜弘宛 葉書」
  表 下目黒842 安原喜弘様
  7日正午
 
 5日から奈良におります
おとといきのう曇小雨で、今日はじめてのお天気です
いま猿沢池畔で陶然として
おりますよう
             中也
 
 
「93 5月17日 安原喜弘宛 封書」
 
  表 下目黒874(ママ) 安原喜弘様
  裏 17日夜 千駄谷874 隅田方 中也
 
 昨日は失礼しました
 
 云忘れていましたが、岡崎の雑誌へは、先日お送りしたランボオの中から、選んで下さいませんか。
 
 猶ラテン街の屋根裏の切符、お送り下さる様お願いします。
                        怱々
                         中也
 
 安原喜弘様
   2伸、若し、ランボオより、もっと他のものがよさそうなら、その旨御知らせ下さい。
 
 
「ラテン街の屋根裏」は、
安原が手伝っていたオペレッタ「パリの屋根の下」のこと。
 
 
「94 5月18日 安原喜弘宛 封書」
 
 
封筒の表に「原稿在中」とあるが、中身は現存しません。
中に、翻訳原稿が入っていました。
 
  (※「新編中原中也全集」第5巻より。「新かな」「洋数字」に改めてあります。編者。)
 
 
こんな具合です。
 
「なりわい=生計」を立てる意識で二人は盛り上がっていたのかもしれません。
安原が「就活」をやめたわけではなく
詩人は「原稿」を売る手立てを講じはじめたようです。
 
その手立てに
ランボーの翻訳は有力のようでした。

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