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生きているうちに読んでおきたい名作たち10・「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」

その1

「ゆきてかえらぬ」の第7連には

 女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。

――と、「女たち」との付き合いが記され、

最終連には

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。

――と、「女や子供、男達」が公園を散歩する光景が記されますが
ここに登場する「女たち」や「女」に
長谷川泰子の面影(おもかげ)がないような感じがしませんか?

この詩「ゆきてかえらぬ」に
長谷川泰子の匂いがしないのは
街としての京都とか
京都に住んでいた期間(=京都時代)とのわかれを歌った(=客体化した)からで
「女のわかれ」を主題にしたものではなかったからです。

そのために
「女のわかれ」を歌った一群の詩が
「永訣の秋」の中に配置されます。

その一つが
「あばずれ女の亭主が歌った」で
ほかには「米子」があり
「或る男の肖像」や「村の時計」も
元を辿(たど)ると
「女のわかれ」のグループに入れておかしくない作品であることが見えだします。

「あばずれ女の亭主が歌った」は
もろに長谷川泰子と詩人を歌った詩ですが
ここにきて
詩人は自分を「おれ」と呼び
泰子を「おまえ」と呼び
「すれっからしの二人」と眺めやる距離感には
目から鱗(うろこ)が落ちたような的確さがあります。

泰子を
「あばずれ女」にしてしまい
自分をその「亭主」と見立てる眼(まなこ)は
「ゆきてかえらぬ」京都(時代)にはなかったもので
上京後にもなかったもので
晩年のここにきて自(おの)ずと獲得されたはずのものです。

 

詩人は
泰子との長い年月にわたる「恋愛」にわかれを告げ
「恋」というよりは「愛」の一つの形として
「あばずれ女とその亭主」という関係(呼び方)が
ベストであることを自然に感じ取ったのでした。

 

その2

「永訣の秋」の16篇の中で
長谷川泰子らしき女性が登場するのは
「あばずれ女の亭主が歌った」
「或る男の肖像」の2作品ですから
これが「泰子のわかれ」を歌った最終作品ということができるかもしれません。

中原中也は「生涯にわたる恋人・長谷川泰子」を
実にさまざまに表現していますが
「あばずれ女」と悪(あ)しざまに言うのは
二人が初めて京都で出会ったころに
「あれはおれの柿の葉13枚だ」と
知人に泰子のことを紹介していたのにやや似通っているようですが
詩作品の中で「あばずれ女」というには
その亭主である私=詩人が
その女と同等の位置にいなければならず
「亭主」になって歌った詩であるところを読まねばならないでしょう。

10数年も前に「柿の葉13枚」と
夜郎自大(やろうじだい)ぶって知人に語った女性と
「永訣の秋」に「亭主」の眼を通じて現われる「あばずれ女」とは
同じモデルの女性であったとしても
自ずと異なります。

どう異なるか――。

何にもまして、一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない存在であることを
この10数年の間に詩人は知りました。
とうてい「柿の葉13枚」ではあり得ませんでした。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――と浮気心も対等ですし、愛の気持ちをうるさく思うのも対等です。

通俗的な「女房と亭主」の関係ではあっても
その関係を「二人」と呼び
どっちかがどっちかの上位にある関係にしていません。

狸(たぬき)と狐(きつね)か、
化(ば)かし合いする世間一般の夫婦に見立てて
泰子との来し方を振り返り
わかれの歌を歌ったのです。

もはやそれを恋とは言わず
愛というほかにありません。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

――と、これはまるで「愛の不可能」を歌っている
現代詩とかフランス映画かなにかの領域に入っているといえるものではありませんか。

あばずれ女の亭主が歌つた
 
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつてゐたことのやう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

 

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕いよる。
 
※「新編中原中也全集」より。《》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は角川全集編集委員
によるものです。

 

その3

「あばずれ女」と聞いただけで
アメリカン・ニューシネマ「俺たちに明日はない」のボニーを思い浮かべたり
「愛の不可能」や「愛の不毛」ならば
イタリア映画「情事」「太陽はひとりぼっち」「夜」のミケランジェロ・アントニオーニ監督作品や
フランス・ヌーベルバーグの「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を思い出したりしますが
突飛なことでしょうか――。

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――というはじまりの5連あたりまではおおよそ当てはまりそうではないですか?

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

――というあたりに、「愛の不可能性」や「愛の不毛」を感じられるなら
この詩の現代性(コンテンポラリーな側面)を読み取ることもできませんか?

突飛ついでにもう一つを言ってしまえば
「あばずれ女の亭主が歌った」は
ラップやヒップホップのリズムに合わせて歌うと
とても分かりやすい叙情が見えてきませんか?

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

――を

♪おまえはおれを=7
♪愛してる=5
♪一度とて=5
♪おれを憎んだ=7
♪ためしはない=6

――と拍子を取ればいかにもラップ。

75調でありながら
破調を自然に駆使していますから
そこをラップの唱法でフォローして歌うとピタリとくるはずです。

以下も同様に、

♪おれもおまえを
♪愛してる。
♪前世から
♪さだまっていた
♪ことのよう。

♪そして二人の
♪魂は、
♪不識《しらず》に温和に
♪愛し合う
♪もう長年の
♪習慣だ。

♪それなのにまた
♪二人には、
♪ひどく浮気な
♪心があって、

 

♪いちばん自然な
♪愛の気持を、
♪時にうるさく
♪思うのだ。

 

その4

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

――というはじまりが示す「二人」の相思相愛の関係は

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――という「二人」の不安定な関係と
前後関係なのではなく同時的な関係です。

○○であって、だから○○であるという前後を示すのではなく
○○であり、○○でもあるという同時的関係を示しています。

完璧な愛の関係が
すでに愛の不可能な関係を孕(はら)んでいるということを
この詩は歌っているのです。
いちばん親しい二人が時にいちばん憎みあうのです

そしてこの詩を歌っているのは「亭主」(=詩人)の方です。
「亭主」は

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

――と愛憎が表裏になっている関係の理由を歌います。

相思相愛であることに満足できない浮気な心を
香水の香りに満足しないで
病院の匂いに引かれてしまうからと自ら分析して見せるのです。

この「病院のあわい匂い」が
読みどころです。
この詩の味わいどころです。

病院の廊下に漂う消毒薬のにおいを好む習性が
二人にはあるのだろうかなどと考えてしまいそうですが
きっとそういうことではないでしょう。
日向より日蔭を好む志向ということでもないし。

自然な愛の気持ちをうるさく思う浮気な心が
一時的刹那的にであれ
表と裏の関係のように必ず出現してしまう
「病院のあわい匂い」についつい引かれていく
いかんともしがたい愛。

愛し合っていてこそ
「病院のあわい匂い」を嗅(か)いでは
次から次に生まれてくる憎しみを弄(もてあそ)ぶ。
そんじょそこらにいる男と女の幸せと不幸とは
いまにも「神のいない世界の愛」を歌っているようにさえ思えてきます。

そうであるからその後はお決まりのように
得体の知れない後悔に襲われ
絶えず不安にさいなまれてもいる女と男――。

 

全行が現在形で書かれ
タイトルだけが過去形であるところに
おやっと思わせられますが
永訣の歌であることに変わりはありません。

 

 

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