彼女は埃及舞妓か?
ひとくちメモ その1
中原中也訳の「彼女は埃及舞妓か?」Est-elle almée?は
「翻訳詩ファイル」という
中原中也が残した草稿の束(たば)に
ランボーの
「(彼の女は帰つた)」(「永遠」の第1次形態)
「ブリュッセル」
「彼女は舞妓か?」
「幸福」
「黄金期」
「航海」の6篇と
ギュスタブ・カーンの詩1篇の
計7篇の翻訳未定稿が記されてある中の一つで
その第2次形態ということになります。
第1次形態が
「翻訳詩ファイル」に書かれた草稿
「彼女は舞妓か?」で
第2次形態が
「ランボオ詩集」に収録された
「彼女は埃及舞妓か?」ですが
第2次形態のタイトルに「埃及舞妓」とあるのは
原詩のalméeの「和訳」で、
「アルメ」と読みます。
アメリカを亜米利加、
フランスを仏蘭西、
スイスを瑞西などと「当て字」で読んだり
中国語からの「輸入」の場合もあるのと同じで
古くからある国名表記法に拠っています。
Alméeは、フランス語で「アルメ」と発音し、
「(近東の)舞姫」の意味ですが
このアルメに「埃及」と当てたのは
中国語で「エジプト」を「埃及」と書き、
「アイジー」「アイチー」と発音するからでもあり
昔の国名表記の情調を
中原中也も「面白い」と考えて採用したのではないでしょうか――。
ランボーのイリュージョンに現れたエジプトのダンサーを
埃及舞妓という漢字と、
アルメという音(おん)に翻訳したのは
中原中也が使用していたフランス語辞書の記載によるものか
詩人の工夫なのか分かりませんが
果敢な訳です。
◇
第1次形態と
第2次形態との間には
かなりの異同があるため
翻訳は別個に行われたものと推定されています。
◇
ランボーの原作には
末尾に「1872年7月」とある自筆原稿が知られており
「1872年5月」の日付けを持つ詩篇と
同じ流れのグループに属するものと
西条八十は分類しています。
◇
「酔いどれ船」を書き上げ
ベルレーヌと初めて会ってから
1年ほど経過していたでしょうか
1872年はランボーが詩を多産した年で
ベルレーヌとベルギーやロンドンを彷徨した「蜜月期間」でしたが
翌1873年7月のブリュッセル銃撃事件を経て
同年末には「地獄の季節」を完成させた
怒涛の年でした。
◇
彼女はエジプトのダンサーか……かわたれどきに
火の花となってくづおれそうではないか。
豪華な都会に近く
壮大な夜のパノラマに!
美しい! おまけにこれはなくてはならない
――海女や、海賊の歌のためには、
だって彼女の表情は、消えそうでありながら、なお海の
夜の宴を信じきってた!
◇
彷徨するランボーが
どこだかの夜の港湾で見た
イリュージョンのような
リアルではかない
鮮烈な光景。
言葉の錬金術は
このような短詩にも
片鱗を見せます。
◇
中原中也の訳は
ランボーの見たイリュージョンを
壊さないように壊さないように
果敢に
詩の空気のようなものを閉じ込めようとしています。
ひとくちメモ その2
中原中也訳の「彼女は埃及舞妓か?」Est-elle almée?は
第1次形態が
「翻訳詩ファイル」に書かれた草稿「彼女は舞妓か?」で
第2次形態が
「ランボオ詩集」に収録された「彼女は埃及舞妓か?」です。
第1次形態の制作は
昭和4年~8年、
第2次形態は
昭和11年6月~12年8月と推定されていますが、
二つの訳には
大きな異同があり、
それぞれ別個に制作されたものと考えられています。
両作の違いがどんなものか
ここで
翻訳の現場に近づく意味もありますから
並べて読んでおきましょう。
◇
彼女は舞妓か?
彼女は舞妓か?……最初の青い時間(をり)に
火の花のやうに彼女は崩(くずお)れるだらう……
甚だしく華かな市(まち)が人を喘がす
晴れやかな広袤の前に!
これは美しい! これは美しい! それにこれは必要だ
――漁婦のために海賊の唄のために、
なほまた最後の仮面が剥がれてのち
聖い海の上の夜の祭のためにも!
◇
以上が第1次形態ですが
広袤(こうぼう)という漢語が使われているほかは
分かりやすい用語で
輪郭のはっきりしたイメージが喚起されます。
「広」は東西の、「袤」は南北の長さ。
したがって、面積の意味ですが、
ここでは、港の背後に広がる市街地を指すのでしょうか?
第2次形態では
「壮んな眺め」となって
抽象化が進んだ感じです。
◇
ここは
いったい
どこなのでしょう。
眠りを知らない
海の近くの街の
朝まだき。
酔いの残る体を
かかえた詩人が見た
エジプトの踊り子。
これは
幻か
夢か
海の祭の夜に
船で繰り広げられた小さな宴を
娘の眼は確かに映してたっけが……。
*
彼女は埃及舞妓か?
彼女は埃及舞妓(アルメ)か?……かはたれどきに
火の花と崩(くづほ)れるのぢやあるまいか……
豪華な都会にほど遠からぬ
壮んな眺めを前にして!
美しや! おまけにこれはなくてかなはぬ
――海女(あま)や、海賊の歌のため、
だつて彼女の表情は、消え去りがてにも猶海の
夜(よる)の歓宴(うたげ)を信じてた!
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。