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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年12月30日

その1
 
千駄ヶ谷872高橋方から
千駄ヶ谷874隅田方へ越したのは
昭和6年(1931年)の年末。
 
そこからの安原宛第1便が
「78 12月30日 安原喜弘宛 葉書」です。
 
 
 この手紙が着く頃は御帰京のことと思います
 お訪ねしたくも電車賃もない有様、その代り毎日籠っているだけは確実に付、何卒やって来て下さい。実は急に先の下宿を変らなければな(ママ)くなり、先の下宿は月末払いであったのが、今度の下宿では先払いということになり、それに今度の方は玄人下宿なもんですから、すくなくも今はゆうずうがつかないのです。                                    失敬
 
 
葉書に書かれた全文です。
 
今度借りた下宿の支払いが先払いになった
そして素人下宿ではなくプロの下宿になった、ということは
来年昭和7年の1月分を近く支払わねばならないということで
使い込んだりすることはできないので
酒を控え、遊びも控え、
下宿で大人しくしていると言いたかったのでしょう。
 
番地が2番違うだけのところへ越したわけは、
この文の中に読み込めそうですが確定的なことはわかりません。
大家といざこざでもあったのでしょうか?
 
安原喜弘はこの葉書に
 
この時彼は、前の下宿とは2番違いの下宿に越している。理由はわからない。かくして昭和6年は暮れて行った。
――とコメントしています。
 
 
満州事変で世情騒然。
弟・恰三の死。
「白痴群」崩壊から1年半が経ちました。
 
 
 
その2
 
千駄ヶ谷874隅田方から出された
「78 12月30日 安原喜弘宛 葉書」に
「お訪ねしたくも電車賃もない有様」とあるのは
何かを買い込んだか無駄遣いをしてしまったからか
仕送りを計画的に上手に使えなくて「手許不如意」の状態になっていたことが想像できますが
なぜそうなったかは不明です。
 
 
 中也への仕送りは、はじめのうちは月々60円ときめていました。これで生活は十分できたろうと
思いますが、休みにはいつも痩せて帰ってきました。それで、中ちゃん、もう10円よけいに送って
あげるから、牛乳を飲みなさい、と60円を70円にしてやりました。けど、つぎの休みに帰ったとき
も、やはり痩せておるんです。しまいには結核で亡くなりましたぐらいですから、あのころから悪か
ったのかもしれません。
 
 中也は身体が弱かったから、痩せて帰ると心配でした。肉でも買うて食べるがええ、とまた10円
ふやして、あとでは80円ずつ送りました。なんでも湯田あたりでは、いちばん金持ちの坊ちゃんが、
その80円という額を聞かれて、「そんなに送ってやる親はおりません。中也君に送りようが多過ぎ
る、あんまり良くないですよ」といわれたことがありました。それでも親馬鹿で、80円ずつ送りまし
た。
 
 
「私の上に降る雪は わが子中原中也を語る」(中原フク述・村上護編)には
母堂フクが東京の詩人へ仕送りしていた実際が語られています。
 
80円がどれほど多額なものか
想像を超えますが
そうでありながら、この頃、ピーピーしていた理由も想像を超えます。
 
 
「69 9月下旬(推定) 中原フク宛 封書」の冒頭に「十分受取ました。」とあり
9月26日の恰三の死をはさんで
「70 どうも賑やかにしすぎました、神経不調の折柄、――ほいなきことでありました。」
「72 10月16日 安原喜弘宛 封書」冒頭の
「元気もなにもありません。自分ながら情けない気持で生きています。」
「73 10月23日 安原喜弘宛 封書」冒頭の「退屈です。」
 
「74 11月4日 安原喜弘宛 葉書」末尾の「酒は買って来てヒヤでやります。」
「75 11月16日 安原喜弘宛 封書」冒頭の「今小生酔いてあり。ヒヤをやっているのです。」
「76 11月17日 松田利勝宛 封書」中ほどの「貧乏すると何もかも臆劫になりますね。」
 
 
これらの手紙が
「お訪ねしたくも電車賃もない有様」(78 12月30日 安原喜弘宛)へと連なります。
 
恰三の死をきっかけに大酒して
大事な仕送りを消尽してしまったのでしょうか?

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