「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年12月30日
その1
千駄ヶ谷872高橋方から
千駄ヶ谷874隅田方へ越したのは
昭和6年(1931年)の年末。
そこからの安原宛第1便が
「78 12月30日 安原喜弘宛 葉書」です。
◇
この手紙が着く頃は御帰京のことと思います
お訪ねしたくも電車賃もない有様、その代り毎日籠っているだけは確実に付、何卒やって来て下さい。実は急に先の下宿を変らなければな(ママ)くなり、先の下宿は月末払いであったのが、今度の下宿では先払いということになり、それに今度の方は玄人下宿なもんですから、すくなくも今はゆうずうがつかないのです。 失敬
◇
葉書に書かれた全文です。
今度借りた下宿の支払いが先払いになった
そして素人下宿ではなくプロの下宿になった、ということは
来年昭和7年の1月分を近く支払わねばならないということで
使い込んだりすることはできないので
酒を控え、遊びも控え、
下宿で大人しくしていると言いたかったのでしょう。
番地が2番違うだけのところへ越したわけは、
この文の中に読み込めそうですが確定的なことはわかりません。
大家といざこざでもあったのでしょうか?
安原喜弘はこの葉書に
この時彼は、前の下宿とは2番違いの下宿に越している。理由はわからない。かくして昭和6年は暮れて行った。
――とコメントしています。
◇
満州事変で世情騒然。
弟・恰三の死。
「白痴群」崩壊から1年半が経ちました。
その2
千駄ヶ谷874隅田方から出された
「78 12月30日 安原喜弘宛 葉書」に
「お訪ねしたくも電車賃もない有様」とあるのは
何かを買い込んだか無駄遣いをしてしまったからか
仕送りを計画的に上手に使えなくて「手許不如意」の状態になっていたことが想像できますが
なぜそうなったかは不明です。
◇
中也への仕送りは、はじめのうちは月々60円ときめていました。これで生活は十分できたろうと
思いますが、休みにはいつも痩せて帰ってきました。それで、中ちゃん、もう10円よけいに送って
あげるから、牛乳を飲みなさい、と60円を70円にしてやりました。けど、つぎの休みに帰ったとき
も、やはり痩せておるんです。しまいには結核で亡くなりましたぐらいですから、あのころから悪か
ったのかもしれません。
中也は身体が弱かったから、痩せて帰ると心配でした。肉でも買うて食べるがええ、とまた10円
ふやして、あとでは80円ずつ送りました。なんでも湯田あたりでは、いちばん金持ちの坊ちゃんが、
その80円という額を聞かれて、「そんなに送ってやる親はおりません。中也君に送りようが多過ぎ
る、あんまり良くないですよ」といわれたことがありました。それでも親馬鹿で、80円ずつ送りまし
た。
◇
「私の上に降る雪は わが子中原中也を語る」(中原フク述・村上護編)には
母堂フクが東京の詩人へ仕送りしていた実際が語られています。
80円がどれほど多額なものか
想像を超えますが
そうでありながら、この頃、ピーピーしていた理由も想像を超えます。
◇
「69 9月下旬(推定) 中原フク宛 封書」の冒頭に「十分受取ました。」とあり
9月26日の恰三の死をはさんで
「70 どうも賑やかにしすぎました、神経不調の折柄、――ほいなきことでありました。」
「72 10月16日 安原喜弘宛 封書」冒頭の
「元気もなにもありません。自分ながら情けない気持で生きています。」
「73 10月23日 安原喜弘宛 封書」冒頭の「退屈です。」
「74 11月4日 安原喜弘宛 葉書」末尾の「酒は買って来てヒヤでやります。」
「75 11月16日 安原喜弘宛 封書」冒頭の「今小生酔いてあり。ヒヤをやっているのです。」
「76 11月17日 松田利勝宛 封書」中ほどの「貧乏すると何もかも臆劫になりますね。」
◇
これらの手紙が
「お訪ねしたくも電車賃もない有様」(78 12月30日 安原喜弘宛)へと連なります。
恰三の死をきっかけに大酒して
大事な仕送りを消尽してしまったのでしょうか?
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