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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年7月19日

その1
 
7月19日付け安原喜弘宛の手紙は
新全集の整理番号では「100」
安原の「中原中也の手紙」では「手紙41」の番号がつけられています。
 
新全集の最終番号は「225」
「中原中也の手紙」の最終番号は「手紙100」です。
 
新全集・第5巻「日記・書簡篇」は平成15年(2003年)に初版を発行
その時点で225通というのは
安原宛以外を含めた手紙の総数ですから
中原中也が書いた手紙で発見された手紙の半数近くが安原宛ということになります。
 
手紙の発見は今も続き
安原宛の手紙は2013年現在で102通に上っています。
昨日6月15日にはじまった「『中原中也の手紙』展――安原喜弘へ」には
最近、安原家で見つかった102番目の手紙も初公開されています。
 
 
さて、「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」
すなわち「手紙41 7月19日(はがき)」を読んでみましょう。
 
新全集では「千駄ヶ谷874 隅田方」発と整理するものを
安原は、(代々木 千駄ヶ谷)発と表示します。
 
手紙の内容は
①ゴースト・ライターとして進められていた「ゴッホの伝記」に関する対策など
②大岡昇平からベルレーヌの作品(原語)を筆写したことの報告
③「山羊の歌」の予約出版への評判について
――の3件です。
 
①が7割、②③で3割ほどの量になります。
ここでは①を読み飛ばしますと、
②から③へは、
 
 今日大岡の所でベルレーヌを全部写して来ました。非常に面白いです。1日で写したんでクタクタになりました。予約の方大抵、早くやると使っちまうと云っている模様です。とんだ見当ちがいです。そうではありませんか。
――と「改行なしで」続いて、「怱々(18日夜)」で終わります。
 
 
「白痴群」の崩壊の一因となった喧嘩の相手の一人、大岡昇平が現われます。
昭和5年(1930年)の事件から2年以上が経過し
交流が復活しているのでしょうか
本の貸し借りとか、原詩の筆写の便宜くらいはずっと継続していたのでしょうか
フランス語の猥詩(安原のコメント)を写して持ち帰ったのは
それを翻訳すれば売れるという計算があったからでしょうか
1日をかけたというのもオーバーとはいえない仕事であったはずでした。
 
 
「詩集の予約」については
「中原中也の手紙」の中でも長文に属するコメントを
安原は残しました。
 
「とんだ見当ちがいです。そうではありませんか。」と末尾に書いた詩人の口ぶりには
憤慨が込められているのがわかりますが
安原のコメントは憤慨以上の背景を記述します。
 
(※「新編中原中也全集」第5巻より。「新かな・洋数字」に変えてあります。編者。)
 
 
 
その2
 
「中原中也の手紙」の編著者安原喜弘が
「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」
すなわち「手紙41 7月19日(はがき)」に加えたコメントは
それまでのコメントの中でも長文で
「詩集の予約出版」への風評の「見当ちがい」を憤慨する詩人の心を汲んで
憤慨する詩人が置かれた状況・背景に言及していきます。
 
静かな口ぶりで
 
 この年の5月の初め頃より彼は愈々(いよいよ)これまでの魂の歴史の総決算をなし、一応それに終止符を打つために詩集の編纂に着手した。これが今日詩集「山羊の歌」となって遺るものである。
 
――と書き起こします。
この頃進行していたゴッホ伝の代筆のアルバイトに関して
詩人の勘違いがあったことを淡々と説明(①)し
「ベルレーヌ云々」に関して短い説明(②)を加えたのに続けて。
 
 
 この詩集成立の事情こそは詩人の魂の歴史に重要なる一時期を画するものであると思われる。既に数年前、生涯の最も重要なる詩の多くを歌い終った詩人は、その後その余影を抱きながら専ら魂の平衡運動に終始するものの如くであったが、今度は嘗て過ぎし日の魂の結晶を整理し一括し、これを印刷に付し公刊することによって、一と先ずはそれを己れのうちより投げ出すことを望んだのであろう。
 
 
「思われる」「望んでのだろう」と
詩集への安原自身の「位置づけ」がまず述べられます。
 
そして次に
当時の詩人の状況、ことさら詩の評価、活動の評価の絶望的状況が
やや熱を帯びた調子で語られます。
 
 
 初めは彼も適当な出版社の手によってそれが刊行せられることを希ったのであるが、何分当時の彼の真価を認める者はほんの二三の特殊な人々に過ぎず、商品価値の上からは零に近く、従って誰も危ぶんで手を出さず、その上相手の命の最後の宿命的な拠り所にまで仮借なく打ち込まれる彼の痛烈な毒舌の故に或時は憎悪を捲き起こし、或時は単に敬遠され、遂にこの話は実現不可能であった。――今日彼の名を単に嫌悪を以てしか、或は過去の亡霊としてしか思い出さない人すらあるのだ――
 
(※講談社文芸文庫「安原喜弘 中原中也の手紙」より。)
 
 
 
その3
 
 そこで彼は自家出版することにした。限定200部印刷とし、会費4円を以て友人知己に予約を求めた。彼の手帳の人名簿が総動員され、案内状が発送された。彼の手帳には彼の一面識のある凡ゆる人々の住所と電話番号が50音順によって克明に登録せられ、誰か相手が欲しい時とか、嚢中に1銭の貯えもない時とか、その他何時如何なる時に於ても立ち所に使用に供せられるのである。これは彼の有名なものの一つである。予約会費の方はなかなか捗々(はかばか)しく進行しなかった。この手紙の中にある『予約の方大抵云々』はこの間の事情を物語っている。
 彼は原稿の整理を済ませると一応郷里山口にこの夏を送りに帰った。
 
 
「中原中也の手紙」の編著者安原喜弘が
「手紙41 7月19日(はがき)」(全集では「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」)に加えたコメントは
このように結ばれ、時の経過を追っていきます。
 
「山羊の歌」が一時、自家出版のやむなきに至り、
しかも友人知人へ予約限定の200部を印刷するという
方針変更の事情を説明しますが
抑制した口調での経過報告です。
 
前段で「――今日彼の名を単に嫌悪を以てしか、或は過去の亡霊としてしか思い出さない人すらあるのだ――」と詩人の憤慨に同期して語った口調は、もうここにありません。
 
 
一時休戦を自己に課したかのように帰省した詩人からは
予約出版の訂正通知を利用した7月26日付けの手紙以後
詩集についてはピタリと書かれなくなります。
 
代わりに、のんびりした山口での生活のたより、
そして長崎から、金沢から旅のたより……が投じられます。
 
詩集については、およそ2か月書かれることはなく
上京後、大森・北千束へ転居して出した9月23日付けの手紙まで書かれません。
山口にいる間では安原宛8月16日付け手紙に「ゴッホ伝」への言及があるだけでした。
 
 
「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」(=「手紙41 7月19日(はがき)」)の
前半部7割ほどの「ゴッホ伝」に関するくだり①を読みます。
 
やがてこの仕事は玉川文庫26「ゴッホ」として
「セザンヌ」(同文庫25)とともに安原喜弘の著作として刊行されます。
 
目下開催中の「『中原中也の手紙』展――安原喜弘へ」(神奈川近代文学館)で詳しく知ることができますが
この「共同作業」は
詩人と安原喜弘の「絆」をいっそう強化したものとして
記憶にとどめたい大きなものでした。
 
詩人は以下のように記しました。
 
 
 先夜は失礼
 ゴッホはクルト・ビスタア(中川一政アルスにあるもの)を土台にして、処々に少しづつ自分の意見を加えて書くことにしましたがどうでしょうか。なまなか僕なんかが考えて書くよりもクルト・ビスタア氏の方がよっぽど有益だと思うのです。剽盗(ママ)にならないためには、最初にクルト・ビスタアに拠るとしましょう。印刷界の常識から云えばそんな必要さえ殆どありません。現にこのアルスは翻訳なのを一政著とあります。相手が辞典ですから、権威ある専門家のものの方が勿論よいでしょう。今3分の1位書いた所です。4、50枚になりましょう。若しそれで君が嫌ならば、没書にして下さい。
 
 
ここで改行して②③へ続きます。

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