タルチュッフの懲罰
ひとくちメモ その1
Le châtiment de Tartufeは
ランボー詩によく現れる
聖職者批判の詩の一つですが
この詩は特に激越な調子があります。
中原中也訳は「タルチュッフの懲罰」。
原詩のソネット(定型・韻律)を
どのようにさばいたでしょうか――。
タルチュッフは
モリエールの喜劇の主人公。
偽善者、エセ信者として広く知られています。
まずは
現代表記し
読み替え・意訳なども加えて
読み下してみましょう。
◇
ワクワクと、彼の心は、恋焦がれ
僧服の中で、幸福を感じ、手袋をはめて、
出かけました、ある日のこと、たいへんやさしそうな
黄色い顔で、歯の欠けた口から、信心のよだれをたらしてネ。
彼は出かけました、ある日のことです、「オムレス! 共に祈らん!」なんちゃって。
とある意地悪なヤツがいて、祝福された彼の耳ねっこを手荒に掴んで
酷い文句を彼にぶっつけました、僧服を
ジメジメした彼の肌から引っ剥がしながらネ。
いい気味だ! ……僧服の、ボタンはすでに外されちゃいました、
多くの罪を許してくれた、その長ーい大きな数珠をたのんで、
心の中でジャリジャリ揉んで、聖タルチュフは真っ青でした。
ところで彼は告解してた、お祈りしてた、あえぎながらも。
例の男は嬉々として、獲物をさらっていきました。
――ふつふつふつ! タルチュフ様は素っ裸。
1870年7月
◇
似たようなのを
どこかで読んだ覚えがあるので
振り返ってみれば
「蹲踞」に行き当たりました。
聖職者を揶揄し、罵倒した
同じ系列の詩といってよいでしょう。
◇
タルチュフ殿は
最後には
虚飾のすべてを剥ぎ取られ
丸裸にされてしまいます。
ひとくちメモ その2
中原中也訳「タルチュッフの懲罰」Le châtiment de Tartufeには
珍しくも!
大岡昇平による同時代訳がありますから
勇んで、それを読んでおきましょう。
◇
大岡昇平は
中原中也にフランス語を習ったことがあり、
それは親から飲み代を引き出すための「策略」だったと回想し、
1週間の間に各自、1篇を訳して見せ合った。私の記憶では中原が「飾画」を、私が「初期詩篇」を受持った。
(角川文庫「中原中也」所収「中原中也全集解説」)
――というように、この「授業」で、
「翻訳の合評」みたいなことをしていたことも明かしていますから、
ウソをついて親をだました、というのとは事情が違うことが分かります。
この時の「翻訳合評」は
二人の文学者それぞれの習練になった、といって過言ではない
貴重な時間になったのです。
◇
この時の訳出が
そのまま決定稿となったわけではないものの
中原中也の「ランボオ詩集」には
これを元に推敲を加えて完成した翻訳が幾つかあり
読むことができるのですが、
大岡昇平の訳が読めるとは
嬉しいことではありませんか!
この翻訳は
「タルチュフ懲罰」のタイトルで
同人誌「桐の花」の昭和5年3月号に発表されています。
原作は、
歴史的仮名遣いである上に
繰り返し記号「/\」を含むなど
再現するのに無理もありますので
現代表記にします。
◇
タルチュフ懲罰
大岡昇平訳
清らかな黒衣の下に愛情深き心臓を掻き立て掻き立て
おててに、手套いそいそと、
歯無の口に信仰たらだら薄黄ろく、
或日、彼は途轍もなく優しく出掛けて行ったが、
或日、彼は出掛けて行ったが――「お祈り」にと――一人の意地悪奴が
荒々しく彼の祝福された耳を引っ捉え、
打湿った皮膚から清らかな黒衣を剥ぎ取って
数々の罵詈雑言を吐き散した。
懲罰か! 着物のボタンはもぎ取られた。
されど赦されたる罪人はだだ長き珠数を心の中に爪さぐり、
聖タルチュフは蒼ざめた。
息きれぎれに彼は祈った懺悔した。
一同は彼の胸飾りを奪って悦に入った。
ほい! タルチュフは頭から尻まで引んむかれた。
(「新編中原中也全集」「第3巻・翻訳・解題篇」より)
◇
「桐の花」は
古谷綱武らが発行する同人誌です。
その昭和5年3月号ならば
「白痴群」第5号が発行され(1月)、
第6号(4月発行)で廃刊になる間のことです。
古谷綱武は
「白痴群」の同人でもありますから
不思議でもなんでもありませんが
中原中也と大岡昇平の仲は
この頃、最悪の事態にあったのですから
大岡が「桐の花」に「タルチュフ懲罰」を発表した経緯も
想像できることです。
現実の事態が
翻訳の中に反映されていることとは
あり得なくもないことでしょうから、
そんなことも知った上で読むことに
支障もまたありません。
ひとくちメモ その3
中原中也訳「タルチュッフの懲罰」Le châtiment de Tartufeは
「ランボオ詩抄」に収録されず
「ランボオ詩集」で初めて公開されたものですから
昭和11年6月から12年8月頃までの間か、
昭和9年9月から10年3月末までの間かの
どちらかの制作と推定されている詩群の中の一つです。
◇
昭和3年に大岡昇平が「桐の花」に発表した「タルチュフ懲罰」を
中原中也が読んだのか読まなかったのか
実証できることではないようですが
フランス語の個人授業の中で
二人が翻訳の相互批評をした詩の一つであったわけですから
特別の思いが込められていてもおかしくありません。
そんな思いを
翻訳の上に読み取ることはできませんが
思いではなく
Le châtiment de Tartufeの翻訳を担当した大岡昇平が
この時から数年してその翻訳の完成稿を発表し
それよりもさらに6年以上も後になって
中原中也が発表した「タルチュッフの懲罰」は
大岡昇平の「タルチュフ懲罰」とまるで似るところのない翻訳になっていることが
逆に、中原中也がいつかこれを読んだことを物語っているのではないかと
推測されて非常に興味深いことです。
◇
両者の違いを
意識して味わってみましょう。
◇
タルチュフ懲罰
大岡昇平訳
清らかな黒衣の下に愛情深き心臓を掻き立て掻き立て
おててに、手套いそいそと、
歯無の口に信仰たらだら薄黄ろく、
或日、彼は途轍もなく優しく出掛けて行ったが、
或日、彼は出掛けて行ったが――「お祈り」にと――一人の意地悪奴が
荒々しく彼の祝福された耳を引っ捉え、
打湿った皮膚から清らかな黒衣を剥ぎ取って
数々の罵詈雑言を吐き散した。
懲罰か! 着物のボタンはもぎ取られた。
されど赦されたる罪人はだだ長き珠数を心の中に爪さぐり、
聖タルチュフは蒼ざめた。
息きれぎれに彼は祈った懺悔した。
一同は彼の胸飾りを奪って悦に入った。
ほい! タルチュフは頭から尻まで引んむかれた。
(「新編中原中也全集」「第3巻・翻訳・解題篇」より)
※原作は、歴史的仮名遣いである上に、繰り返し記号「/\」を含むなど再現するのに無理もありますので現代表記にしてあります。
◇
タルチュッフの懲罰
中原中也訳
わくわくしながら、彼の心は、恋慕に燃えて
僧服の下で、幸福おぼえ、手袋はめて、
彼は出掛けた、或日のことに、いとやさしげな
黄色い顔して、歯欠けの口から、信心垂らし
彼は出掛けた、或日のことに――《共に祈らん(オレムス)》――
と或る意地悪、祝福された、彼の耳をば手荒に掴み
極悪の、文句を彼に、叩き付けた、僧服を
じめじめの彼の肌から引ツ剥ぎながら。
いい気味だ!……僧服の、釦は既に外(はづ)されてゐた、
多くの罪過を赦してくれた、その長々しい念珠をば
心の裡にて爪繰りながら、聖タルチュッフは真(ま)ツ蒼(さを)になつた。
ところで彼は告解してゐた、お祈りしてゐた、喘ぎながらも。
件の男は嬉々として、獲物を拉つてゆきました。
――フツフツフツ! タルチュッフ様は丸裸か。
〔一八七〇、七月〕
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。編者。
◇
単語一つ、似ているところがないことが
見えたでしょうか。
これは
小林秀雄のランボー訳に対する中原中也の態度と
明らかに異なるものです。
ひとくちメモ その4
Le châtiment de Tartufeの日本語訳で
昭和3年に発表された大岡昇平訳が
最も早い時期の訳になるのであれば驚きですが、
断定できません。
今のところ
大岡昇平より早く訳したものが見つかりませんし
戦前の翻訳で公表されているもので
2番手が中原中也訳であるなら
これもまた驚きですが、
これも断定できません。
◇
戦後になってからは
昭和27年発行の人文書院版「ランボオ全集」に
村上菊一郎の「「タルチュフ懲戒」がありますが、
ここでは
昭和26年に新潮文庫に入った堀口大学訳「ランボー詩集」から
「偽善者(タルチユフ)の天罰」を読んでおきましょう。
「月下の一群」で
ランボーを選択しなかった堀口大学が
戦後になってようやくまとめた同詩集は
瞬く間に版を重ね
平成23年時点で88刷という人気ぶりですから
その理由が少しは分かるかもしれません。
◇
偽善者(タルチユフ)の天罰
堀口大学訳
世をいつわりの黒染めの僧衣(ころも)の袖(そで)に
狂おしの恋慕のほむらおしかくし
心いそいそ、行儀よく手袋かけて、気味悪いほど落着いて、
彼奴(かやつ)出掛けた、或(あ)る日のことよ、歯のない口からだらだらと、嬉(うれ)しい涎(よだれ)
彼奴(かやつ)出掛けた、或る日のことよ、――「祈らめ、いざや(オレミユス)」――
さるほどに、悪戯者(いたずらもの)が現われて、抹香(まっこう)臭い彼奴の耳を鷲摑(わしずか)み
あらん限りの雑言(ぞうごん)吐いて、あげくのはては、
冷汗(ひやあせ)びっしょり濡れた彼奴から、世をいつわりの黒染めの僧衣(ころも)をさっとはぎ取った。
天罰覿面(てきめん)!――僧衣(ころも)はさっとはぎ去られ、
重ね来た煩悩(ぼんのう)の罪の数々、数珠玉(じゅずだま)の数ほどわが身に覚えあり
偽善者上人(タルチユフしょうにん)このところ青菜に塩さ!
大あわて、息せき切って、懺悔(ざんげ)するやら、祈るやら、
袈裟(けさ)と僧衣(ころも)を奪い取り、男はさっと引きあげた、
――は、はッ! これでどうやら偽善者上人(タルチユフしょうにん)、一糸まとわぬ裸となったぞ。
◇
戦後発表のことですから
歴史的かな遣いではなく、
文語の使用も抑えていて
どこかモダンな感じを出しています。
* タルチュッフの懲罰 わくわくしながら、彼の心は、恋慕に燃えて 彼は出掛けた、或日のことに――《共に祈らん(オレムス)》―― いい気味だ!……僧服の、釦は既に外(はづ)されてゐた、 ところで彼は告解してゐた、お祈りしてゐた、喘ぎながらも。 (講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
僧服の下で、幸福おぼえ、手袋はめて、
彼は出掛けた、或日のことに、いとやさしげな
黄色い顔して、歯欠けの口から、信心垂らし
と或る意地悪、祝福された、彼の耳をば手荒に掴み
極悪の、文句を彼に、叩き付けた、僧服を
じめじめの彼の肌から引ツ剥ぎながら。
多くの罪過を赦してくれた、その長々しい念珠をば
心の裡にて爪繰りながら、聖タルチュッフは真(ま)ツ蒼(さを)になつた。
件の男は嬉々として、獲物を拉つてゆきました。
――フツフツフツ! タルチュッフ様は丸裸か。
〔一八七〇、七月〕
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。編者。
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