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内向派が読んだ中原中也・秋山駿の場合

私が初めて中原中也に出会ったのは、昭和22年夏、創元社版の『中原中也全集』によってである。

――と、「出会い」という言葉を使って、
明確に中原中也を読みはじめた体験を語るのは
「知れざる炎 評伝中原中也」の著者・秋山駿です。

同書で秋山駿は続けて記します。

その頃、敗戦時の少年として、たった一人きりの生存という生に直面させられ、だからといってその不安な意識に映ずる自分も遠く、世界も遠く、生存は不可解であり、一人の人間であるということが何を意味するかも知らぬ者にとっては、彼の言葉はずいぶん優しく身に染みたが、本当は、詩集を求めたのはそういう良い動機からではなかった。

どんな詩人なのかと思って頁をパラパラめくっているうちに、年譜に「文学に耽りて落第す」とあるのを見出して、それで求めてきたのだ。そのとき私も、自分の全局面に亙ってすべてを怠けようと思っていた。

創元社版「中原中也全集」は
戦後すぐに大岡昇平編集で出された
全集という名がついた初めてのもので
簡易なものながら年譜付きでした。
この年譜の中に
略自伝である「詩的履歴書」にある
「文学に耽りて落第す」という一節が記されているのでしょう。
秋山駿はこれを読んで心に留めたのでした。

中原中也の詩は
昭和9年の「山羊の歌」、
昭和12年の「在りし日の歌」の自選詩集をはじめ
諸々の雑誌・新聞などに発表した作品群で
一般の読者にも読めるものでしたが、
没後にも、
昭和14年「現代詩集Ⅰ」に29篇、
昭和15年「昭和詩抄」に5篇、
昭和16年「歴程詩集」に7篇、
昭和17年「日本海詩集」に3篇といった具合に収録されるなど
非常時下にも細々とながら着実に紹介(評価)され続け
昭和22年に、大岡昇平編集の全集発行に至るまで
読者が維持されてきたという歴史があります。

秋山駿は1930年生まれですから
これまでここで取り上げてきたケースの中では
大岡信と中村稔の間に生まれた世代で
終戦時点でミドル・ティーンになっていますから
戦中世代といっておかしくはないのですが
「内部の人間」などの著作活動から
内向派世代ということにしておきましょう。

(つづく)

「詩的履歴書」は「我が詩観」と題する未発表評論の末尾に書かれたものです。
全文を引用しておきます。

詩的履歴書。――大正4年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
大正7年、詩の好きな教生に遇(あ)ふ。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
大正9年、露西亜詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞといふことは、随分先から行なはれてゐることなんだなと安心す。
大正10年友人と「末黒野」なる歌集を印刷する。少しは売れた。

大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正14年の11月に死んだ。懐かしく思ふ。
同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正14年、小林に紹介さる。
大正14年8月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた14行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和2年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。
同年11月、諸井三郎を訪ぬ。
昭和3年、父を失ふ。ウソついて日大に行ってるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧(むし)ろウソが明白にされたので過去三ケ年半の可なり辛(つら)自責感を去る。
同年5月、「朝の歌」及「臨終」諸井三郎の作曲にて発表さる。
昭和4年。同人雑誌「白痴群」出す。
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和7年、「四季」第二輯(しふ)夏号に詩3篇を掲載。
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
同年12月、結婚。
昭和9年4月、「紀元」脱退。
昭和9年12月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
昭和10年6月、ジイド全集に「暦」を訳す。
同年10月、男児を得。
同年12月、「山羊の歌」刊行。
昭和11年6月、「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正4年より現今迄の制作詩篇約700。内500破棄。
大正12年より昭和8年迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の12時頃迄歩くなり。

※「新編中原中也全集」第4巻・評論・小説より。
※読みやすくするため、改行(行空き)を加え、洋数字に変更してあります。編者。

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