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「白痴群」前後・片恋の詩11「老いたる者をして」

その1
 
「木蔭」に
「馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去」とあり
「失せし希望」に
「わが若き日の夢は希望は」とあり
「夏」に
「嵐のような心の歴史」とあり
「心象」に
「亡びたる過去のすべて」とあり……
 
「山羊の歌」の「少年時」に配置された詩の後半部は
過去形の「恋」が歌われましたが
「空しき秋」は
「老いたる者」へのエールを歌います。
 
過去は過去でも「大過去」となって
青春は遠ざかります。
 
 
大岡昇平が「空しき秋」と呼んでいるのは
「在りし日の歌」に「老いたる者をして」の題で収録される詩のことで
「空しき秋」は全体のタイトルです。
 
はじめは20数篇あったとも、16篇あったとも
この詩の制作現場の近くにいた関口隆克が異なる証言をしていますが
その連作詩のタイトルが「空しき秋」で
第12篇だけが残りました。
 
 
老いたる者をして
  ――「空しき秋」第12
 
老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
 
吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり
 
ああ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
 
東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな
 
或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことわに過ぎゆく如く……
 
   反歌
 
ああ 吾等怯懦(きょうだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかからいて、涕くことを忘れいたりしよ、げに忘れいたりしよ……
 
〔空しき秋20数篇は散佚(さんいつ)して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕
 
(「新かな」「洋数字」に改めました。原詩の第5連第2行「はたなびく」には傍点があります。編者。)
 
 
「空しき秋」が昭和3年9月に作られたことを
関口隆克は目撃証言として記していますから
下高井戸での共同生活の中で
「空しき秋」は歌われたということになります。
 
 
この詩に諸井三郎が曲を付け
昭和5年(1930)5月の「スルヤ」第5回発表会で演奏されました。
 
この発表会では
「帰郷」「失せし希望」(内海誓一郎作曲)も
「老いたる者をして」とともに歌われました。
 
 
詩は恋愛の進化と共に変化する。
――と大岡昇平は記して
「空しき秋」から「雪の宵」への変化を見ますが
「空しき秋」の「荘重体」は
まだ「盲目の秋」の流れの中にあります。
 
はららかに
はららかに
涙を含み
――と歌った「涙」を
「老いの眼」が歌いなおすのです。
 
 
その2
 
「老いたる者をして」は
昭和5年5月の「スルヤ」第5回発表会で
長井維理のバリトンで歌われたのが初演になります。
「白痴群」が廃刊になった直後のことでした。
 
この頃、大岡昇平ら「白痴群」同人のほとんどが
一時的にではあれ、中也に距離をおいていました。
小林秀雄との関係も復旧されていません。
 
 
この初演にあたって発行された
音楽団体「スルヤ」の広報(会報)で
「老いたる者をして」は
歌曲の詞として紹介されました。
詩が詩誌や詩集で発表される前に
歌詞として公開されたのです。
 
この詞は
昭和7年5月発行の
「世界音楽全集」(春秋社)の第27巻「日本歌曲集」にも収められます。
 
いずれの場合も
詩としてではなく
歌詞として公開されたことになります。
 
「老いたる者をして」は
文学であるよりも
音楽の分野でデビューしたのです。
 
 
昭和3年に作られた詩が
諸井三郎によって作曲され
昭和5年に歌曲としてバリトンで独唱された
昭和7年には「歌曲集」に収録された――。
 
この経緯は
一個の詩作品の新たな可能性を予告しているどころか
中原中也の詩が
根っこに音楽を「抱えている」という傾向にあることを示しています。
 
昭和3年に作った自分の詩が
人間の声に乗せられ
人々の耳に入っていくのを見た詩人が
その可能性に無頓着であったはずがありません。
 
「過去」に歌った「叙情」が
文字としてである以上に声として
歌い継がれていくという「伝播の仕方」を経験した詩人は
詩=歌=音楽という方向を
「詩の命」と見做すようになりました。
 
 
歌謡
里謡
子守唄
小唄……
 
57、75など定型への志向
オノマトペやルフランの多用……
 
「夏」や「サーカス」など自作詩を朗読することへのこだわり……
 
賢治の詩への関心……
 
白秋調の摂取も
その表れということができるかもしれません。
 
 
詩人は「雪の宵」を歌う地点に
至近距離にありました。
 
そのことと
泰子との「恋」の行方がパラレルに進行しました。
 
 
その3
 
「恋」の行方を見るために
「老いたる者をして」を
もう少し読んでみましょう。
 
「老いたる者」とは
人たる者のすべてのことでしょうか。
 
 
その人を静かな環境においてあげなさい
静かにさせてやってください
彼らを心ゆくまで悔いさせてあげるのです
 
わたしは悔いることを望みます
心ゆくまで悔いて本当に魂を休めたいのです
 
果てしなく泣きたい
父母兄弟友人……そばで見ている人のことなどすっかり忘れて
泣きたい
 
東雲の空、夕方の風のように
小旗がはたはたたなびくように泣こう
 
別れの言葉が、こだまして、雲の中に消えてゆき、
野末に響き、海の上の風に混ざって、永遠に過ぎ去っていくように……
 
反歌
 
私たちは、長い間、臆病で意気地がないために
無駄なことばかりしてきて
泣くことを忘れてきたのだ
ああ
ほんとに大事なことを忘れてきたのだ
 
 
読み下しただけですが
「別れの言葉」とあるのが
「恋」の現在を示しています。
 
もはや、遠い日のこととなったあの時に
女が残した「言葉」だけが私の中を行き来しています。
 
 
この詩が「山羊の歌」ではなく
「在りし日の歌」に収録されたことも
「恋」が遠くのものになったことを示しているでしょう。
 
現実の恋は
行きつ戻りつしますが
泰子に詩人との間からではない子どもが生れたのは
昭和5年12月のことです。
 
築地小劇場の演出家山川幸世との間の子ですが
詩人はその子に「茂樹」の名をつけました。
名付け親となったのですし
その後もあれやこれやと茂樹を可愛がりますし
泰子との接触を絶やしたわけではありませんが
詩に表われる「恋」は
明らかに遠い過去へ退いています。
 
 
「老いたる者」とは
詩人のことでもあったわけです。
 
 
老いたる者をして
  ――「空しき秋」第12
 
老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
 
吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり
 
ああ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
 
東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな
 
或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことわに過ぎゆく如く……
 
   反歌
 
ああ 吾等怯懦(きょうだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかからいて、涕くことを忘れいたりしよ、げに忘れいたりしよ……
 
〔空しき秋20数篇は散佚(さんいつ)して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕
 
(「新かな」「洋数字」に改めました。原詩の第5連第2行「はたなびく」には傍点があります。編者。)
 
 
 
 
 
 

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