カテゴリー

« 「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日 | トップページ | 「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月12日 »

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日番外篇

詳しい年譜(「新編中原中也全集」別巻<上>)によると
「山羊の歌」が完成したのは
昭和9年12月7日の夜でした。
 
以後の消息を見ると、
 
12月8日朝、文圃堂へ行き、予約者と寄贈者へ署名、発送を済ませました。
詩人の高森文夫が、この発送作業をサポート。
同日夕刻、東京を出発、
12月9日午後、山口着。
実家で長男文也と初対面しました。
同じ日、山口市の病院に入院中の養祖母コマを見舞いました。
 
12月16日、「星とピエロ」「誘蛾燈詠歌」を制作。
同20日、この日発行の「四季」第3号に「秋の1日」を発表。
同29日、(なんにも書かなかったら)を制作。
同30日、安原喜弘宛に「薔薇」を送付。
――などとなっています。
 
 
「秋の1日」は、
「白痴群」「紀元」にすでに発表したものの再発表ですから
「星とピエロ」「誘蛾灯詠歌」と
(なんにも書かなかったら)だけが新作になります。
 
 
ここで
「星とピエロ」と「誘蛾燈詠歌」を読んでおきましょう。
 
両作品ともに
宮沢賢治の影響が指摘されています。
 
中原中也は
大正14年末か15年初頭に
賢治の「春と修羅」を購入、その時から愛読するなど
早くからの「発見者」であったことはよく知られていますが
「山羊の歌」の装丁に際しても
「宮沢賢治全集」を強く意識していました。
 
自作の詩にも
幾つか賢治の詩の言葉や童話の題材との類似例が見つかります。
 
 
星とピエロ
 
何、あれはな、空に吊るした銀紙じゃよ
こう、ボール紙を剪(き)って、それに銀紙を張る、
それを綱(あみ)か何かで、空に吊るし上げる、
するとそれが夜になって、空の奥であのように
光るのじゃ。分ったか、さもなけりゃ空にあんあものはないのじゃ
 
そりゃ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞというが
そんなことはみんなウソじゃ、銀河系なぞというのもあれは
女共(おなごども)の帯に銀紙を擦(す)り付けたものに過ぎないのじゃ
ぞろぞろと、だらしもない、遠くの方じゃからええようなものの
じゃによって、俺(わし)なざあ、遠くの方はてんきりみんじゃて
 
         (一九三四・一二・一六)
 
見ればこそ腹も立つ、腹が立てば怒りとうなるわい
それを怒らいでジッと我慢しておれば、神秘だのとも云いたくなる
もともと神秘だのと云う連中(やつ)は、例の八ッ当りも出来ぬ弱虫じゃで
誰怒るすじもないとて、あんまり仕末(しまつ)がよすぎる程の輩(やから)どもが
あんなこと発明をしよったのじゃわい、分ったろう
 
分らなければまだ教えてくれる、空の星が銀紙じゃないというても
銀でないものが銀のように光りはせぬ、青光りがするってか
そりゃ青光りもするじゃろう、銀紙じゃから喃(のう)
向きによっては青光りすることもあるじゃ、いや遠いってか
遠いには正に遠いいが、そりゃ吊し上げる時綱を途方ものう長うしたからのことじゃ
 
 
誘蛾燈詠歌
 
ほのかにほのかに、ともっているのは
これは一つの誘蛾燈(ゆうがとう)、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともっているのは
誘蛾燈、ひときわ明るみひときわくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともっているのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともっているのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときわ明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一と夜、此処にともるは誘蛾燈
 
   2
 
と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆(しゃば))だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいえるし刹那的(せつなてき)とも考えられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯(ともし)をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)い気もあるというのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるというのだからおおけなきものです
もともとはといえば終局の所は、案じあぐんでも分らない所から
此処は此処だけで一心になろうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いいから可愛がる、従って
その子はまたその子の子を可愛がるというふうになるうちに
入籍だの誕生の祝いだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であろうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆というものは
なにや分らずただいじらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還(おうかん)に流れ消えゆくを
銀河思い合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だのと云われてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考えてのようやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活するということしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思いそぞろになりながら
而(しか)も義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびっくりしている
 
   3
      あおによし奈良の都の……
 
それではもう、僕は青とともに心中しましょうわい
くれないだのイエローなどと、こちゃ知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなお淡(あわ)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きていたいが業(ごう)のはじまり、かにかくにちょっぴりと働いては
酒をのみ、何やらかなしく、これこのようにぬけぬけと
まだ生きておりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)って、耳ゴーと鳴って口きけませんだじゃい
 
   4
      やまとやまと、やまとはくにのまほろば……
 
何云いなはるか、え? あんまり責めんといとくれやす
責めはったかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)いますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどっしやろ、しかし柳腰(やなぎごし)もええもんどすえ?
(ああ、そやないかァ)
(ああ、そやないかァ)
 
   5 メルヘン
 
寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前(しずかごぜん)と金時(きんとき)は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかえられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしておりました
 
   ×
 
或るおぼろぬくい春の夜でありました
平(たいら)の忠度(ただのり)は桜の木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗いました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
 
           (一九三四・一二・一六)
 
(※「新編中原中也全集」第2巻 詩Ⅱより。「新かな」「洋数字」に変えました。編者。)

« 「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日 | トップページ | 「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月12日 »

中原中也の手紙から」カテゴリの記事