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「一筆啓上、安原喜弘様」はじめに

◆その1
 
「お仙泣かすな 馬肥やせ」は
「長男・仙千代を元気に育てているか、馬を上手に飼いならせよ」という意味で
徳川家の家臣・本多重次が陣中から妻に宛てた手紙として有名です。
原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」だったようで
それが「一筆啓上 火の用心」と七五調に語呂を整えられて人々の間に伝わりました。
 
やがては、短い文を書く手本ということになり
駆け出しの新聞記者がOJT(オン・ジョブ・トレーニング)の中で
もっともらしい教育材料の一つにされたりして
この手紙のことを知る、というような使われ方をします。
 
遠い日のことですが
現在でもこんな場面が新聞制作の現場で生きているでしょうか。
インターネット時代に
そんなことあるわけがありませんね。
 
 
「中原中也の手紙展――安原喜弘へ」(主催中原中也記念館ほか)が
2013年6月15日から神奈川近代文学館で開かれたのをきっかけに
ぱらりぱらりと「日記・書簡」などをひもといていて
中原中也がなんとも「手紙の名手」であることを再発見することになりました。
 
そこで例によってとるものもとりあえず
「一筆啓上」シリーズをはじめることにしました。
 
 
いま手元にあるのは
「新編中原中也全集 第五巻 日記・書簡」(角川書店)や
「中原中也の手紙」(安原喜弘編著、玉川大学出版部)や
同書の新装版、講談社文芸文庫版などです。
 
 
中也の手紙ってどんなものか
まず、実際に読んでみましょう。
 
ざわざわとした喫茶店の中で
持ち込んだ新全集のページをめくっていると
人語のざわつきがうっとおしいものでなくなって
かえって詩人の呼吸が伝わってくる感じがあって
面白いひとときになります。
 
たとえば、昭和6年10月16日付けの安原喜弘宛封書の
後半部は
 
 時にかの『月の浜辺』なる曲は、核心のまわりに、多分のエナをつけていて、未進化なものではありますが、そのかわり猶、濃密に核心がこれと分るように見付かります。――昨夜は関口と飲みました。氏は、酒のいい店を御存知です。僕事『月の浜辺』を賞揚したら、氏はこんこんとその愚作たることを説かれました。
(※「新かな」に改めました。編者。)
 
――などとあり、
身を乗り出します。
 
◆その2
 
「月の浜辺」とは、
昭和6年に河原喜久恵が歌い
コロムビアからレコードが発売されて人気を博した流行歌です。
作曲を若き日の古賀政雄(当時は正雄)が担当(作詞は島田芳文)。
中也は、これをラジオで聞いたのでしょうか。
 
僕はあやまりながら、その歌詞を書取って帰りました。「月影白き、波の上、ただひとりきく 調べ。告げよ千鳥、姿いづこかの人。ああ狂ほしの夏の夜。こころなの、別れ。」 さよなら。
――と、前回引用した手紙を続けて、結んでいます。
(※「狂ほし」とあるのは「悩まし」が正解だそうです。「新編中原中也全集」第5巻・解題篇より。)
 
 
関口とは、申すまでもなく、関口隆克のことです。
昭和3年9月からおよそ1年間を共同生活した年上の友人です。
交友は昭和6年にも続いており
晩年(昭和12年)、千葉療養所から退院した詩人が鎌倉へ引っ越すときも
住まいを仲介するなど詩人に力を貸した人です。
 
その関口は「月の浜辺」を評価せず
賞揚した詩人にこんこんと愚作であることを解き明かしたのですが
詩人は、自分の住まいに帰って
筆記した「月の浜辺」の1番をもう一度吟味したのでしょう、
 
核心のまわりに、多分のエナをつけていて、未進化なものではありますが、そのかわり猶、濃密に核心がこれと分るように見付かります。
――と、安原宛のこの手紙の中で「月の浜辺」にコメントしました。
 
 
手紙は、封書の場合と葉書の場合とがあり
これは封書に書かれました。
 
封書ですから
いくらでも書くことができるので
このような「批評」のようなものが現われることがあるのです。
 
 
核心とあるのは、
この手紙の前半の部分を引き継いでいるもので
 
元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持ちで生きています。
 
――と書き出された「晴れやかならぬ気持ち」の流れを
 
新宿の空に、気球広告が二つあがっています。あれの名は「エアーサイン」です。
 
――と引き取って、その後に書かれる、この手紙のテーマなのです。
 
 
 
◆その3
 
「月の浜辺」を
中原中也は賞揚したにもかかわらず関口隆克にたしなめられ
帰ってから吟味したことを安原に書き送ったのが
昭和6年10月16日付けの書簡の一部です。
 
中に「濃密に核心がこれと分るように見付かります」とあるのは
詩人としては捨てがたいものがあると
関口には反論しなかったものを
安原には伝えておきたかった、ということでしょうか。
 
「批評」というほどのものではないにしても
詩人が目指している「詩」の方角が
「月の浜辺」とそれほど外れたところにあるものではないことを
この感想は示しているように見えます。
 
 
新宿の空にあがった広告気球を歌った詩があります。
「早大ノート」にある未発表詩です。
 
 
秋の日曜
 
私の部屋の、窓越しに
みえるのは、エヤ・サイン
軽くあがった 二つの気球
 
青い空は金色に澄み、
そこから茸(きのこ)の薫(かお)りは生れ、
娘は生れ夢も生れる。
 
でも、風は冷え、
街はいったいに雨の翌日のようで
はじめて紹介される人同志はなじまない。
 
誰もかも再会に懐(なつか)しむ、
あの貞順(ていじゅん)な奥さんも
昔の喜びに笑いいでる。
 
 
この詩が
「元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持ちで生きています。」
手紙に書く詩人と無縁ではないことを知って
少しびっくりします。
(直接に関係があるものではなさそうですが。)
 
 
新全集ではこの書簡を、
 
72 昭和6年10月16日 安原喜弘宛 封書
表 京都市左京区百万遍 京都アパートメント 安原喜弘様
裏 十六日 中也 東京市外千駄谷八七二 高橋方
 
――と、整理し、紹介しています。
72とあるのは、通し番号です。
225が、「新全集・第5巻」発行時点(平成15年)の最終番号です。

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