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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか

その1
 
一人でカーニバルをした1月末の詩人は
その後どうしたのでしょうか。
 
時はゆっくりと移ろい
3月末には東京外国語学校専修科を卒業します。
卒業したからといって
外務書記生になろうとする考えはなく
そのあたりのことも含めて実家へ報告するためもあったのでしょうし
何よりも詩集発行のための資金繰りの相談を母・フクに持ちかけねばならなかったはずです。
 
詩人は一時帰省します。
 
 
「手紙54 3月22日 (はがき)」(新全集は「118」)は、山口・湯田発。
 
21日 無事帰り着きました 当地はまだ冷たい風が吹きすさんでいます 山の梢ばかりが目に入るというふうです
 
奈良には2泊しました
  鹿がいるということは
  鹿がいないということではない
  奈良の昼
        と日記に書きました
                            怱々
 
 
「手紙55 4月7日 (はがき)」(新全集は「119」)は、東京・目黒局発。
 
 6日夜帰って来ました お変りありませんか
 家では弟が病名の分らない病気に苦しんでいましたので、憂鬱でした おかげでいらいらしています 少し落着き次第、お訪ねしようと思います では 拝眉の上
                            怱々
 
 
この2通の手紙への安原のコメントはありません。
 
詩人の上京後、何度か2人は会う機会があったのでしょうか
安原宛の次の手紙は4月25日付け封書が残されました。
ここで詩集の動きが新局面を迎えます。
 
詩人自らが出版社への交渉に臨んだのです。
 
 
「手紙56 4月25日 (封書)」 大森・北千束発。
 
 前略――今日お宅を出ると間もなく思いついて急に芝書店に詩集をみせに行きました、結局製本屋への紹介は便宜を与えるということにとどまりましたが、一寸一時は動きかけていました、もう少し雄々しく此ちらが出れば、引き受けたかもしれませんでした。紙や組み方は立派なものだといって感心していました。ここまでやっている上は製本もよくなくちゃ、とも言っていました。鳥の子で高くも4銭(表紙)といっていました。製本共に3、40円なら上りそうなので、なまなか本屋に持ってって出してもらうよりピンカラキリマデの自製本としようかとも思いますが。どっちにしても出しとけば売れると云っていました。(定価は実費のまず2倍とするものだそうです。)――生れて初めて本屋に持込みました。却々(なかなか)の勇気でした。
 
 
4月25日に詩人は安原を訪問した後、
帰りの道で芝書店へ行くことを思い立ったのです。
2人の話の内容が刺激になったのでしょうか。
 
安原には青天の霹靂(へきれき)でした。
 
 
ここまでで手紙の半分ほどです。
 

 
その2
 
当時新進文学者の新しい労作を目利くも次々と取り上げて世に出し、而も相当の成績を挙げて出版界の一角に一種生新の気を漲らし、従って彼の詩集の出版には一番好都合とも思われた芝書店
――と、安原が紹介する出版社。
そこへ、詩人は単身で乗り込んだのです。
 
その日別れる時、
芝書店へ行くことを語らなかった詩人の行動を
「詩人の魂を金銭価値に換算し評価するところの出版商人の前に己を曝し者にすることは到底彼の為し得るところではなかった。」と見ていた安原は驚き、
「一大勇猛心であったに違いない。」と記しました。
 
 
「動乱」はピークを越えたのでしょうか。
詩人の魂の高揚は
詩集出版の「実務」と矛盾することもなく
「出版商人」との交渉さえもいとわせぬものだったと言えるのかもしれません。
 
そのことを明かすかのように
「手紙56 4月25日 (封書)」には
幾つかの詩篇が同封されていました。
 
いずれもタイトル無しの詩篇ですが
「中原中也の手紙」では
安原はこれらの詩篇にいっさいのコメントを入れず
手紙本文に続いて「無題」として掲出しています。
 
これらの詩篇を読みましょう。
 
 
無題
 
         此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。
 
 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。
 
 
無題
 
        パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカー
        キシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ
 
十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが
 
旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、
 
めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、
 
淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。
 
 
無題
 
闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
 
秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って
 
寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた
 
 
無題
 
        おお、父無し児、父無し児
 
 雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
 落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
 風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。
 
(※「新かな」に改めてあります。編者。)
 
 
「新編中原中也全集」では
「未発表詩篇?草稿詩篇(1933年〜1936年)」に分類され
タイトルのない作品を第1行を取って( )の中に表示する慣例により
(とにもかくにも春である)と「仮題」を付けています。
 
 
その3
 
(とにもかくにも春である)は
冒頭連で
「此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき」
最終連で
「父無し児、父無し児」(テテナシゴ、テテナシゴ)
――とエピグラフに「社会から疎外された人々」(=この世を生きづらく感じている人々)を主格として扱い、
 
第2連のエピグラフにも
パッパ、ガーラガラ、
ハーシルハリウーウカ、
ウワバミカーキシャヨ、
キシャヨ、
アーレアノイセイ
――と意味不明のお呪(まじな)いを使ったり
 
一見してダダっぽい言葉使い(措辞)なのですが
京都時代のダダよりもずっとずっと
洗練され深化(進化)したダダであるところは
京都から10年も経っているのですから当然です。
 
 
「社会から疎外された人々」は
「被差別者」とか
「底辺に生きる人々」とか
「社会的弱者」とか
……
生きていることを辛く感じている「マイノリティー」のことですが
ひとくくりに換言できる言葉が見つかりません。
 
「詩の言葉」を
他の言葉に置き換えることが無理なのですが
詩は「自殺する者」と「父なし児」を同列に置いていますから
「マイノリティー」と言い換えても的外れではないでしょう。
 
私はその日人生に、
椅子を失くした
――と「港市の秋」に歌った詩人がここにもいます。
 
 
冒頭連の
「トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポン」というイメージなどは
「春の日の夕暮」(※「山羊の歌」冒頭詩)へ通じるとともに
「正午――丸ビル風景」(※「在りし日の歌」最終章「永訣の歌」所収)へ繋がるものです。
 
ズバリと言ってしまえば
(とにもかくにも春である)は
中原中也の昭和8年のダダであり
フランス象徴詩、なかでもランボーを通過したダダであり
ダダでありながらダダでない
ダダでないけれどダダである、というような……
中原中也の詩です。
 
 
いい機会ですからここで
(とにもかくにも春である)が制作された前後、
すなわち昭和8年(1933年)前半に制作された作品に
じっくり目を通すことにしましょう。
 
「新編中原中也全集」の
「未発表詩篇?草稿詩篇(1933年〜1936年)」の前半部に
それらを読むことができます。
 
 
(ああわれは おぼれたるかな)
 
ああわれは おぼれたるかな
  物音は しずみゆきて
燈火(ともしび)は いよ明るくて
ああわれは おぼれたるかな
 
母上よ 涙ぬぐいてよ
 朝(あした)には 生みのなやみに
けなげなる小馬の鼻翼
紫の雲のいろして
たからかに希(ねが)いはすれど
たからかに希いはすれど
轣轆(れきろく)と轎(くるま)ねりきて
――――――――
澄みにける羊は瞳
瞼(まぶた)もて暗きにいるよ
  ―――――――――――――
 
 
小 唄
 
僕は知ってる煙(けむ)が立つ
 三原山には煙が立つ
 
行ってみたではないけれど
 雪降り積った朝(あした)には
 
寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
 煙草くゆらせ僕思う
 
三原山には煙が立つ
 三原山には煙が立つ
      (一九三三.二.一七)
 
 
早春散歩
 
空は晴れてても、建物には蔭(かげ)があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹(うすぎぬ)ででもあるように
ハンケチででもあるように
我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる
 
私はもう、まるで過去がなかったかのように
少なくとも通っている人達の手前そうであるかの如(ごと)くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のような眼眸(まなざし)をして、
確固たるものの如く、
また隙間風(すきまかぜ)にも消え去るものの如く
 
そうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎えるものであることを
ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立返ったのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思う、思うことにも慣れきって僕は思う……
 
 
(形式整美のかの夢や)
 
      ▲
         高橋新吉に
 
形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎょうかく)の
土硬くして風寒み
 
希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と
 
身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上におどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる
     (一九三三・四・二四)
 
 
(風が吹く、冷たい風は)
 
      ▲
 
風が吹く、冷たい風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせ
それを透かせてぼんやりと
遠くの山が見えまする汽車の朝
 
僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ
 
昨日は何をしたろうか日々何をしていたろうか
皆目僕は知りはせぬ
胸平板のうれしさよ
 
(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチョコナンとあることは、
小倉(こくら)服の駅員が寒そうであることは、幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)
 
 
(とにもかくにも春である)
 
       ▲
 
         此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。
 
 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。
 
      ▲
        パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカーキシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ
 
十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが
 
旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、
 
めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、
 
淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。
 
      ▲
 
闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った
夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って
 
寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた
 
      ▲
 
        おお、父無し児、父無し児
 
 雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
 落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
 風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。
 
 
(宵の銀座は花束捧げ)
 
宵(よい)の銀座は花束捧(ささ)げ、
  舞うて踊って踊って舞うて、
我等(われら)東京市民の上に、
  今日は嬉(うれ)しい東京祭り
 
今宵(こよい)銀座のこの人混みを
  わけ往く心と心と心
我等東京住いの身には、
  何か誇りの、何かある。
 
心一つに、心と心
  寄って離れて離れて寄って、
今宵銀座のこのどよもしの
  ネオンライトもさんざめく
 
ネオンライトもさざめき笑えば、
  人のぞめきもひときわつのる
宵の銀座は花束捧げ、
  今日は嬉しい東京祭り
 
 
(ああわれは おぼれたるかな)は昭和8年(1933年)1月、
(宵の銀座は花束捧げ)は昭和8年6月の制作(推定)とされています。
 
 
 
その4
 
(ああわれは おぼれたるかな)………1月制作(推定)
「小唄」…………………………………2月17日制作
「早春散歩」……………………………早春制作(推定)
(形式整美のかの夢や)………………4月24日制作
(風が吹く、冷たい風は)………………4月24日制作(推定)
――と読んできた上で
(とにもかくにも春である)を読みますと
自然な流れを感じませんか?
 
 
詩人は
3月21日に山口に帰り
4月6日に東京に戻りました。
 
(風が吹く、冷たい風は)の風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせる風です。
詩の中の詩人は汽車の中ですが
それを何日かして歌いました。
 
「早春散歩」の風も
吹いているのは街中か
故郷の土手か――と
詮索(せんさく)してみたくなる風ですが
どっちで吹いていたのか
詩人の心の中を吹いていたことだけは確かなことです。
 
 
「小唄」にも
(形式整美のかの夢や)にも
風は吹いています。
 
風が吹いているのならまだいい。
(ああわれは おぼれたるかな)は
「暗き」にいるだけの詩人が
「母上の涙」を思います。
 
「動乱」のピーク近くで
この詩は作られたと考えれば
安原の見ていた詩人に近づくでしょうか。
 
 
(とにもかくにも春である)には
(ああわれは おぼれたるかな)
「小唄」
「早春散歩」
(形式整美のかの夢や)
(風が吹く、冷たい風は)
――と歌ってきた詩の流れが
どーっと集まっています。
まるで「集大成のような
なかなかの詩であることがわかってきます。
 
その根底には
ダダがあります。
 
「自殺」「パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ」「父無し児」……と
それだけでダダです。
 
「トタン屋根」「チャンポン」「涙」「幻」……も。
「梟」「パセリ」「にんにく」「葱」「梨」……も。
「青春的事象」「権柄的気六ヶ敷さ」……も。
 
 
はじめ、安原喜弘宛、昭和8年4月25日付け封書に同封されたこの詩は
考証が進められた現在では
「全4節で構成された連作詩風の詩篇」が最終形とされるようになりました。
 
ここでは
「中原中也の手紙」に安原が掲出した形態の詩を
載せておきます。
 
※最終形は、「無題」とあるところを「▲」に置き換え
連続(断続)を表わしています。
 
 
無題
 
         此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。
 
 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。
 
 
無題
 
        パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカーキシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ
 
十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが
 
旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、
 
めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、
 
淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。
 
 
無題
 
闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
 
秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った
夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って
 
寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた
 
 
無題
 
        おお、父無し児、父無し児
 
 雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
 落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
 風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。
 
 
その5
 
「手紙56」に寄せた安原喜弘のコメントの前半部では
詩人が芝書店へ詩集の単独交渉へ出たことに驚く安原が紹介されますが
コメント後半部は
この頃の「詩人の変化」へとフォーカスを変えた記述が現われます。
 
まず、詩人の安原宛「手紙56 4月25日 (封書)」の後半部分を読んでおきましょう。
 
 
今晩フランス語教えました。知らない人に教えたのははじめてで、相手の気持が分らないので少々周章(あわ)てました。加之(のみならず)、ジンマシンになり、教えているうちにも、みるみる、からだ中赤くなり、痒くなりました。今もう指の先まで赤くなっています。ジンマシンたるや、いかにも此の頃の自分の総勘定のような気がしまして、これが癒ったらさっぱりするだろうというようなことを思います。また雨です。
                         中也
   25日夜
 
喜弘様
2伸 今京都の高森から手紙が来ました、友達がなくてまいっているようです、出来たら関西美術のお知合に紹介して下さいませんか。
「左京区田中大堰町19 愛知館 高森淳夫」
 
 
ジンマシンを「自分の総勘定」と考えるに至った経緯の中に
年初めの「カーニバル」への反省があったと見るべきでしょうか?
 
いや、詩人は「カーニバル」を自分の見方として
対人関係の祝祭的表現と見做していたはずですから
反省したとしても
これを放棄する方向というよりも深化する方向で調整しようとしていたはずです。
「カーニバル」は「一人でする」ものではなく
相手との祝祭的関係の中で行われるものだ、と。
 
 
「それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。」(「修羅街輓歌」)と詩人がはじめて歌ったのは
昭和5年1月発行の「白痴群」第5号の中でした。
 
この頃からある対人関係のギクシャクを
詩人は変革しようとしたのでしょうか。
世渡り上手にでもなろうとしたのでしょうか。
 
 
出版交渉へ単身で乗り出す詩人に
安原は、はじめ驚き、
次第次第に「変化」を気づきはじめます。
 
手紙後半に対する安原のコメントは
この「変化」をとらえます。
 
 
この頃彼は次々と内臓関係の発疹とか排泄機関(尿)の故障を訴えたのであるが、私も亦彼の肉体のこのような故障は彼の魂の恢復には密接な関連のあるもののように考えられてならなかった。
 
事実彼は肉体の病を一つ一つ克服するに従って元気づくように思われた。彼の中には何か新らしい生命が生れて来るように見受けられた。
 
(「中原中也の手紙」より。改行を加えてあります。編者。)
 
 
「新しい生命」は
どのような展開を見せるのでしょうか。

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