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ランボー<31>中原中也「芸術論覚え書」を読む・その2

 <承前>
 
 *芸術論覚え書(現代新聞表記)
 
一、芸術を衰退させるものは、固定観念である。いってみれば、人が皆、芸術家にならなかったということは、たいがいの人は何等かの固定観念を生の当初に持ったからである。固定観念が、条件反射的にあるうちはまだよいが、無条件反射とまでなると芸術は枯渇する。
 
 芸術家にとって世界は、すなわち彼の世界意識は、善いものでも悪いものでも、その他いかなるモディフィケーションをも許容できるものではない。彼にとって、「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、A=Aであるだけの世界の中に、彼の想像力は活動しているのである。したがって、「面白い故に面白い」ことだけが芸術家に芸術の素材を提供する。あたかも、「これは為になる、故に大切である」ことが、生活家に生活の素材を提供するように。
 
一、しかも、生活だけするということはできるが、芸術だけするということは芸術家も人間である限りできない。こうして、そこに、紛糾は、およそかつて誰も思ってみなかったほど発生しているのであるが、そのことを文献はほとんど語っていないというのも過言ではない。こうしてここでは「多勢に無勢」という法則だけが支配し、芸術はいつもたしなめられるが、しかも生活側が芸術をたしなめようとすることこそ、人類が芸術的要求を持っているということであり、芸術的要求の生活側での変態的現象である、と言える。何故ならば、無勢であるために多勢にとって覗き見ることがむずかしいものをたしなめることは、また、芸術側が面白い故に面白いものだけを関心するのに相似し平行している。
 
 こうして古来、真摯な芸術家が、いわば伝説的怪物のような印象を残して逝ったことは示唆的である。
 
一、芸術家には、認識は不要だなどとよく言われる。しかし、認識しようと観察しようと結構だ。ただ応用科学が何かの目的の下に認識したり観察したりするように、認識したり観察したりするのは無駄だ。認識が面白い限りで認識され、観察が面白い限りで観察されるのは結構なことだ。
 
 それというのも、芸術とはいってみれば人類の倦怠を治療する役を持っているといえばいえる。それは自然の面白さを拡張する一つの能力で、だとすれば断じて興味以外のものを目的とすることが許されない。何を目的としようと勝手ではある。しかも興味以外の目的がある限りで、芸術能力は減殺されることは自然法則である。何故ならば、芸術の存在理由は芸術自身の内にあること、ちょうど塩っ辛いものが塩っ辛く、砂糖が甘いというようなものであり、恍惚は恍惚であっても、恍惚は直接、他に伝達できるものではなく、恍惚の内部がよく感取され、すなわち他の恍惚内部との相関関係でわずかに暗示、表現することができるに過ぎないから。
 
一、美とは、宿命である。しかも、宿命であると分かれば、人力で幾分、美を人為的に保存し、増大させることができる。すなわち、芸術家が、生活家の義務を強いられないような環境を作ることによって。
 故に、芸術家は、芸術家同士で遊ぶがよい。それ以外の対座は、こちらからは希望してかからないこと。
 君の挨拶が滑稽だといって笑われたらよい。そんな時はただ赤面していればよい。その赤面を回避しようとした途端に、君は君の芸術を絞めにかかっているのだ。
 
 生活がまづいということではない。
 社交性と芸術とは、何の関係もない。芸術家がとかく淋しがりやであるので関係があるように見えるだけのものだ。しかも、芸術家は、もし社交が面白ければ社交すればよい。
 
一、芸術とは、物と物との比較以前の世界のことだ。笑いが生じる以前の興味だ。笑いは、興味の自然的作品だ。生活は、その作品を読むとか読まないとか、聞くとか聞かないとかの世界だ。故に、芸術とは興味が、笑いという自然的作品よりも、作品という人力の息吹きのかかったものを作り出すためには、興味そのものの内部に、生活人よりも格段と広い世界を持たねばならない。故に、生活を、ことに虚栄を、顧慮する限りで衰退する形の、呆然と見とれている世界のことである。
 
 故に、芸術家である芸術家が、芸術作用を営みつつある時間内に、芸術家は他の人に敵対的ではなく、天使に近い。
 
 生活人はしばしばこの天使状態を、何かと訝る。訝っても自分にほとんどない要素であるためについに推察できず、疑心暗鬼を生じ、芸術家を憎むに至る。これは無理もないことであるから仕方がない。
 
 しかもこれを生活人に十分解らせることは困難である。自分に持っていないものは分かりはしない。もし分かったとしても、それが生活人自身にとって何にもならないことから、分からないよりももっと悪い結果を起こすだけのものである。だから、そういう時には、よく言われるように「芸術家は子供っぽいものですよ」と言っておけばよい。もっとも、このことは、芸術家が、非常に顕著に芸術的である場合にのみ起こる。
 
※「現代新聞表記」とは、原作の歴史的仮名遣い、歴史的表記を現代の新聞や雑誌の表記基準に拠って書き改めたもので、現代仮名遣い、現代送り仮名、常用漢字の使用、非常用漢字の書き換え、文語の口語化、接続詞や副詞のひらがな化、句読点の適宜追加・削除――などを行い、中学校2年生くらいの言語力で読めるように、平易で分かりやすい文章に整理し直したものです。
 
 
 *
 芸術論覚え書(原作)
 
一、芸術を衰褪(すいたい)させるものは固定観念である。云つて見れば人が皆芸術家にならなかつたといふことは大概のひとは何等かの固定観念を生の当初に持つたからである。固定観念が条件反射的にあるうちはまだよいが無条件反射とまでなるや芸術は涸渇(こかつ)する。
 芸術家にとつて世界は、即(すなは)ち彼の世界意識は、善いものでも悪いものであも、其の他如何なるモディフィケーションをも許容出来るものではない。彼にとつて「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、A=Aであるだけの世界の中に彼の想像力は活動してゐるのである。従つて「面白い故に面白い」ことだけが芸術家に芸術の
素材を提供する。恰(あたか)も「これは為になる、故に大切である」ことが生活家に生活の素材を提供する如く。
 
一、而も生活だけするといふことは出来るが、芸術だけするといふことは芸術家も人間である限り出来ぬ。かくて、其処(そこ)に、紛糾は、凡そ未だ嘗(かつ)て誰も思ってもみなかった程発生してゐるのであるが、そのことを文献は殆ど語つてゐないといふも過言ではない。かくて此処では「多勢に無勢」なる法則だけが支配し、芸術は何時も窘(たしな)められるが、而も生活側が芸術を窘めようとすることこそ人類が芸術的要求を有する所以のものであり、芸術的要求の生活側に於ける変態的現象であると云へる。何故ならば、無勢であるために多勢にとつて覗(のぞ)き見ること難きものを窘めることはまた、芸術側が面白い故に面白いものだけを関心するのに相似し平行してゐる。
 かくて古来真摯(しんし)な芸術家が、謂(い)はゞ伝説的怪物の如き印象を遺して逝(い)つたことは示唆(しさ)的である。
 
一、芸術家には、認識は不要だなぞとよく云はれる。然し認識しようと観察しようと結構だ。たゞ応用科学が何かの目的の下に認識したり観察したりする様に、認識したり観察したりするのは無駄だ。認識が面白い限りに於て認識され、観察が面白い限りに於て観察されるのは結構なことだ。
 
それよ、芸術とは云つてみれば人類の倦怠(けんたい)を医する役を持つてゐるといへばいへる。それは自然の面白さを拡張する一つの能力で、されば断じて興味以外のものを目的とすることが許されぬ。何を目的としようと勝手ではある。而も興味以外の目的がある限りに於て、芸術能力は減殺されることは自然法則である。何故ならば、芸術の存在理由は芸術自身の裡(うち)にあること、恰(あたか)も塩ッからいものが塩ッからく、砂糖が、甘いが如きものであり、恍惚は恍惚であれ、恍惚は直接他(ひと)に伝達出来るものではなく、恍惚の内部がよく感取され、即ち他の恍惚内部との相関関係に於て僅かに暗示、表現することが出来るに過ぎないから。
 
一、美とは、宿命である。而も、宿命であると分れば、人力で幾分美を人為的に保存し、増大せしめることが出来る。即ち、芸術家が、生活家の義務を強(し)ひられざるやうな環境を作ることによつて。
 故に、芸術家は、芸術家同士遊ぶがよい。それ以外の対座は、こちらからは希望してかからないこと。
 
君の挨拶(あいさつ)が滑稽(こっけい)だといつて笑はれるがよい。そんな時は唯赤面してればよい。その赤面を廻避しようとするや、君は君の芸術を絞めにかかつてゐるのだ。
 
生活が拙(まづ)いといふことではない。
 社交性と芸術とは、何の関係もない。芸術家がえて淋しがりやであるので関係があるやうに見えたりするだけのものだ。而も、芸術家はもし社交が面白ければ社交するがよい。
 
一、芸術とは、物と物との比較以前の世界内のことだ。笑ひが生ずる以前の興味だ。笑ひは、興味の自然的作品だ。生活は、その作品を読むとか読まぬとか、聞くとか聞かぬとかの世界だ。故に、芸術とは興味が、笑ひといふ自然的作品よりも、作品といふ人力の息吹きのかかつたものを作り出すためには、興味そのものの内部に、生活人よりも格段と広い世界を有さねばならぬ。故に、生活を、殊には虚栄を、顧慮する限りに於て衰褪する底の、呆然見とれてゐる世界のことである。
 故に、芸術家たる芸術家が、芸術作用を営みつつある時間内にある限りに於て、芸術家は他(ひと)に敵対的えでゃなく、天使に近い。
 生活人は屡々(しばしば)芸術家の此の天使状態を、何かと訝る。訝かつても自分に殆どない要素である故遂に推察出来ず、疑心暗鬼を生じ、芸術家を憎むに到る。これは無理からぬことでありから仕方がない。
 而もこれを生活人に十分解らせることは困難である。自分に持つてゐないものは分りはせぬ。もし分つたとしても、それが生活人自身にとつて何にもならぬことから、分らないよりもつと悪い結果を起すだけのものである。だからさういふ時には、よく云はれるやうに「芸術家は子供つぽいものですよ」と云つておけばよい。尤も、このことは、芸術家が、非常に顕著に芸術的である場合にのみ起る。
 
 
(角川書店「新編中原中也全集 第4巻 評論・小説 本文篇」より)
 
 
 
 
 
 
 

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