フォーヌの頭
接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く
けぶるがような葉繁みの中に
活々として、佳き刺繍(ぬいとり)をだいなしにして
ふらふらフォーヌが二つの目を出し
その皓(しろ)い歯で真紅(まっか)な花を咬んでいる。
古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、
その唇は笑ひに開く、枝々の下。
と、逃げ隠れた――まるで栗鼠、――
彼の笑いはまだ葉に揺らぎ
鷽(うそ)のいて、沈思の森の金の接唇(くちづけ)
掻きさやがすを、われは見る。
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ひとくちメモ その1
「フォーヌの頭」Tête de Fauneは
中原中也訳「ランボオ詩集」「初期詩篇」の2番目の詩です。
「フォーヌ」は、ローマ神話に出てくる牧神。
半獣神です。
ギリシア神話のパンと対応しています。
「エルキュルとアケロユス河の戦ひ」に登場したのが
記憶に新しく残っています。
この中原中也の訳詩の初出は
昭和5年1月1日付け発行の「白痴群」第5号、
再出が、昭和8年10月1日付け発行の「紀元」同年10月号、
さらに三出が、昭和9年2月1日付け発行の詩誌「椎の木」同9年2月号
四出が、昭和11年6月25日付け発行の「ランボオ詩抄」
――と繰り返し発表され
その都度、若干の推敲が行われました。
「ランボオ詩集」に収録した段階では第5次形態になり、
比較的に異同の多い作品ということになりますが
何度も発表を繰り返したということは
この詩を相当気に入っていた上に
翻訳としても自信があり
詩内容に詩心を動かされるものを感じていたからではないでしょうか。
◇
金を帯びた緑に光る葉の繁みに
接吻している唇が眠るかのように大きな花が咲いている
けぶるように、鬱蒼とした葉の繁みの中に
生き生きと、絶品の刺繍を台無しにして。
そこからふらふらとフォーヌが二つの目を出し
真っ白な歯で真っ赤な花を咬んでいる。
古酒と血に染まり、朱色に浸かり
その唇は笑って開く、枝と枝の下。
すると、逃げ隠れた、まるでリスのように
彼の笑いはまだ葉の中で揺らぎ
鴬(うそ)もいて、静もり深い森の金の接吻が
ざわざわと騒擾するのを、わたくしは見る。
◇
これは幻想というよりは
「わたし」である詩人の肉体の底を
衝き動かす
生まな
情念の炎の形……なのか。
フォーヌがそそのかす
詩人の魂への
点火か
爆弾か
……
◇
あれ、か。
遠いところにある
あれ、なのでしょうか。
秘密を見たような
発見したような
詩人が詩人の魂に感応し
ほくそ笑んでいるような……。
ひとくちメモ その2
「フォーヌの頭」と金子光晴の訳
「フォーヌの頭」Tête de Fauneは
中原中也訳「ランボオ詩集」「初期詩篇」の2番目に置かれていますが
金子光晴は「初期韻文詩」24番目に
「牧神の頭」と題して訳出しています。
金子光晴自身は明らかにしていないのですが
「ランボー全集 全一巻」(雪華社、1984年)の
共著者、斉藤正三や中村徳泰があとがきに
この全集の原典を
主としてプレイヤード版とし
ガルニエ版やメルキュール版をも参照していることを明かしていますから
中原中也が原典としたメルキュール版とは
構成や分類が異なり
そのために「牧神の頭」は
「初期韻文詩」の24番目に配置されるのです。
参考のために
ここでも
金子光晴の訳を見ておきますが
制作年(翻訳した年)は不明です。
金子光晴は1975年に亡くなり
1984年発行の雪華社版「ランボー全集」は
没後編集であることとも関係があるのか
制作年など出自の詳細を明らかにしていません。
あとがきに
金子光晴自身が
「ランボー――人と作品」と
「初期韻文詩」「後期韻文詩」「忍耐の祭り」について、という
二つの解説を著わしているのですが
「牧神の頭」に関する言及はありません。
金子光晴の原作を
意訳を少し加えて読んでみます……
◇
緑に金を撒きこぼした宝石箱、
繁みの葉陰から
接吻して眠るのによい場所、
花々をいっぱいつけて
揺れたまま動きをやめない繁みの葉陰から、
眼にも鮮やかな刺繍を、一瞬のうちに引き裂いて
とまどうそぶりのフォーンの頭がぬっと現われ、
二つの眼をキョロキョロ動かして
まっ赤な花を手あたり次第、
白い歯で噛み割いた。
みか酒の血かなにかで塗られたように
鳶色に輝くその唇が、入り組んだ枝の下で
カラカラと笑った。
それから、リスのすばやさで身を隠したが
笑いは、葉の一枚一枚に残って、震えていた。
飛び立つ鷽(うそ)に一瞬おどろかされたが、
金の接吻の森は
しばらく、深い物思いに沈んでいた。
◇
ここには
口語体の翻訳であること以外に
淡々として
力みのない声調があるばかりのようです。
文語体の格調を捨てた代わりに
さらりとしていて
一筆描きの淡白さに味があります
少なくとも、この詩に関しての
中原中也と金子光晴との温度差は
はっきりとしているようです。
*
二十四、牧神の頭
金子光晴訳
緑に金(きん)をまきこぼした宝石筺(ばこ)、
しげみの葉蔭(はかげ)から、
接吻(くちづけ)けて眠るによい場所、
花々をいっぱいつけて、揺れてさだめないしげみの葉蔭から、
目もあやなそのぬいとりを、たちまち引き裂いて、
とまどった牧神(フォーン)のあたまがぬっと現われ、
双(ふた)つの眼をきょろつかせ、
まっ赤な花を手あたりしだい、白い歯牙(しが)にかけて噛(か)みさいた。
甕酒(みかざけ)の血でもぬられたように、
鳶いろに輝くその唇が、さしかわす枝枝のしたで、
からからとわらった。
それから、栗鼠(りす)のすばやさで身をかくしたが、
笑いは、葉の一枚ずつにのこって、おののいていた。
飛び立つ鴬(うそ)におどろかされたあとで、
金の接吻の森は、しばしは、ふかいものおもいにとらわれていた。
(雪華社「ランボー全集 全一巻」より)
ひとくちメモ その3
「フォーヌの頭」Tête de Fauneについては
原典の、やや錯綜した事情を
知っておくと理解が深まります。
「フォーヌの頭」Tête de Fauneの
ランボー自筆の原稿は存在しない、
というところからこの事情を見ていかなければなりません。
ランボーの自筆原稿がなくても
かつてそれを読んだポール・ベルレーヌが筆写した原稿があったために
その筆写原稿が世に出るという奇跡が起こったのです。
そもそも
アルチュール・ランボーの存在が世の中に知らされたのは
ポール・ベルレーヌが
1884年にヴァニエ書店から発行した
詩人論「呪われた詩人たち」の中のことでした。
この時は
トリスタン・コルビエール
ステファヌ・マラルメ
アルチュール・ランボーの3人が扱われましたが
その後、1888年に増補改訂版を同書店から発行し
デボルト=ヴァルモール
オーギュスト・リラダン
「ポーヴル・レリアン」ことポール・ヴェルレーヌが追加されました。
1884年から1888年のころ、
ランボー本人は
文学から遠ざかり
アフリカのアビシニア(エチオピア)のハラルや
アラビア半島突端の町アデンなどで
商業ビジネスに従事していました。
「呪われた詩人たち」の中の
ポーブル・レリアンPauvre Lelianとは
ポール・ヴェルレーヌPaul Verlaineの綴り(スペル)を入れ替えた
アナグラムという遊び(一種の修辞=レトリック)で
ベルレーヌの偽名として使われています。
「呪われた詩人たち」の一人に
ベルレーヌ自身を挙げるために
アナグラムで偽名を使ったのです。
この「ポーブル・レリアン」の中に
ベルレーヌは
ランボーの詩を2篇引用しました。
その一つが「盗まれた心」
もう一つが「フォーヌの顔」でした。
中原中也も
増補改訂版の「呪われた詩人たち」を採用している
メッサン版「ヴェルレーヌ全集」を原典にして
「ポーブル・レリアン」を翻訳しましたから
「フォーヌの顔」と巡り合いました。
「フォーヌの顔」は
「ポーブル・レリアン」に引用されたもののほかに
ベルレーヌが筆写した原稿が残っていて
二つのバリアントが存在しますが
中原中也はこのどちらをも参照し
「両者を混合させて独自の訳稿を作り上げた」(新全集・解題篇)ことが
分かっています。
このことをみても
中原中也の「フォーヌの顔」に示す
並々ならぬ熱意が想像できます。
「白痴群」
「紀元」
「椎の木」
「ランボオ詩抄」
「ランボオ詩集」と
5回も異なる媒体に発表したことともあわせ
この熱意がどこから生じているか
大いに興味が湧くところです。
「酔ひどれ船」や
「少年時」を読んだ時の熱は
いまだ冷めやらないどころか
「フォーヌの顔」のような
珠玉の作品に巡りあっては
ますます深い森に分け入って行ったに違いない
詩人の興奮が見えるようです。
*
フォーヌの頭
緑金に光る葉繁みの中に、
接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く
けぶるがやうな葉繁みの中に
活々として、佳き刺繍(ぬひとり)をだいなしにして
ふらふらフォーヌが二つの目を出し
その皓い歯で真紅(まつか)な花を咬んでゐる。
古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、
その唇は笑ひに開く、枝々の下。
と、逃げ隠れた――まるで栗鼠、――
彼の笑ひはまだ葉に揺らぎ
鷽のゐて、沈思の森の金の接唇(くちづけ)
掻きさやがすを、われは見る。
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
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