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「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・6「黄昏」

その1
 
「黄昏」も
悲しみについて歌っているところで
「悲しみの朝」と同じです。
 
「生活者」の昭和4年9月号に発表されています。
そして、「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されるところも同じですが
「黄昏」は9番目、「悲しみの朝」は15番目という配置です。
 
 
「悲しみの朝」とどちらが先に制作されたのかわかりませんが
昭和4年であるのは間違いないことでしょう。
 
二つの詩を
類似しているところがあるからといって
比較して読むあまり混同することには注意が必要です。
二つの詩は
別々の詩であることをゆめゆめ忘れてはなりません。
 
でも「悲しみ」というテーマ(主題)で歌われた詩の
早い時期の作品であるということを
記憶しておくことに越したことはないでしょう。
 
 
この詩「黄昏」ではズバリ! 
 
――失われたものはかえって来ない。
なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
 
――という詩行が見られ
「悲しみの理由」が明確に歌われていますから
詩人がこの後に多量に歌う「悲しみの歌」を味わうときに
なんらかの参考になることがあるはずです。
 
 
黄 昏
 
渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。
 
音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐(お)う……
黒々と山がのぞきかかるばっかりだ
――失われたものはかえって来ない。
 
なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
草の根の匂いが静かに鼻にくる、
畑の土が石といっしょに私を見ている。
 
――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!
じいっと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立って、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです
 
 
大岡昇平の書いた伝記「朝の歌」に
この蓮池に関する有名な記述があります。
 
そこで、中也が住んでいた下宿、東京・中野の池と推定されたため
あまりにも印象に残り
「黄昏」を読むときには
見たこともない中野の蓮池を想像してしまうほどです。
 
昭和初期の中野を知るものではありませんが
高度経済成長以前の中野をよく知っていると
「黄昏」を読むときに
中野の自然がかぶさってきます。
 
 
本当は「中野の蓮池」にこだわらなくても読める詩です。
蓮池は各所によく見られます。
石神井池や井の頭池など
池という池に必ずといってよいほど
蓮が茂る一角があるようですし
詩人の生地、山口にも存在するかもしれませんし
「黄昏」に歌われている蓮が
東京・中野のものと特定しなくてもオーケーです。
 
 
同時代を生きた友人の、1次情報ですから
大岡の記述には説得力がありますが
「黄昏」の蓮は
「自然の蓮」である以上の意味を放っていて
蓮の描写や風景の細部の見事さに目を奪われていると
見失うものがあります。
 
 
その2
 
「黄昏」の蓮は
「中野の蓮池」を歌ったものという大岡説の上に、
蓮という植物への鋭い「観察」の跡が見られ
「描写」も単なる写実でないところに
「表現の技」をギリギリまで追い求めた形跡があります。
 
といっても
技が「あばら骨」のように浮き出ているわけではありません。
むしろ、隠されています。
 
 
この詩の「描写」をざっと見てみますと、
 
渋った仄暗い池の面
寄り合った蓮の葉
蓮の葉は、図太い
こそこそとしか音をたてない
薄明るい地平線
黒々と山がのぞきかかる
草の根の匂い
 
……などと、言葉の選び方には
なんともいえない「クセ」がありますが
比較的に平易です。
「渋った」は詩人による造語でしょうか。
 
蓮の葉は、図太い
こそこそとしか音をたてない
草の根の匂い
 
……のようなユニークな表現が平易な言葉の中に混じります。
 
 
寄り合った蓮の葉
蓮の葉は、図太い
黒々と山がのぞきかかるばっかりだ
畑の土が石といっしょに私を見ている。
 
……という擬人法も次第に姿を現わして自然(控え目)です。
 
 
渋った、暗い……という光の加減(視覚)
寄り合った、揺れる……という身体感覚
図太い、こそこそ……という人間の性質(擬人化)
 
「こそこそ」は音にかぶさり(私=詩人が登場)
「私」の心の揺れになり……心理
揺れる心が地平線を追い……目の移動
黒々と山が「迫ってくる」……光(視覚)
 
ここで突如(と感じさせるように)
 
――失われたものはかえって来ない。
なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
 
――という2行が、連を渡して出現します。
 
そしてすぐに(第3連)
 
草の根の匂い……鼻をつき(嗅覚)
畑の土が石といっしょに私を見ている……という「くっきりした」擬人化で終わります。
 
 
一語一語、一行一行が
五感を総動員して
「しりとり遊び」のようにリンクし
第1連から第3連へと
蓮池の情景を借りながら淡々と進行し
いつしか詩人の「立ち位置」を宣言する最終連へいたります。
 
第1連から第3連までは
最終連の導入であるかのように
この詩は作られています。
 
 
その3
 
「黄昏」の中に
 
――失われたものはかえって来ない。
――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!
 
と、「――」を行頭においたフレーズがありますが
この行は詩の作者の「地の声」です。
 
詩を「作っている人」が
詩の中の世界を「超えて」
直(じか)に「告白」したり「説明」したり「主張」したり「慨嘆」したり……
 
詩の中で歌ってもよいのですが
詩本文(本体)よりも「高み」(もしくは「低み」)」から
詩本文を「超えて」
ものを言っている詩行です。
 
 
ここに並べただけでは
この2行の(因果)関係が見えませんが
詩(人)は「――」を置いた詩行に
なんらかの(因果)関係を主張したかったのでしょうか?
 
 
「失われたもの」とは
過ぎてしまった青春とか過去の大切な思い出とか……時間
生まれ育った土地とか住んでいた場所とか……空間
いなくなってしまった家族とか恋人とか友人とか……人間
 
かつて存在したもので今ここにはないもの。
 
この詩の場合
どのようにも受け止められますが
まずは、泰子と暮した楽しかった時が浮かんできます。
 
その時は永遠に帰ってこない
悲しいことは色々とあるものだが
これほど悲しいことはない
――と歌ったところで
草の根の匂いが鼻にくるのです。
そして、畑の土と石が私を見るのです。
 
ほーれ、見たことか!
女に逃げられてよ!
 
 
草の根(の匂い)や畑の土や石は
「大地」にあって永久に不変の存在でありつづけるものです。
 
日の昇るとともに起き
日の落ちるとともに眠り
土を耕し石ころ取り除く
誠実で忍耐のいる「耕す人々」の暮らしの土台です。
 
草の根が鼻にくる、
畑の土と石が私を見ている、というのは
あたかもそのように着実な存在であるものによって
私がせせら笑われていることを象徴的に表現したものです。
 
 
いや! 私は耕すつもりはない!
――と詩人は、しかし、毅然(きぜん)として否定します。
 
こうしてきっぱり否定したまでははっきりしていますが
詩人はしばらくの間、
茫然(ぼんやり)黄昏の中に立っていました。
 
さまざまな思いが立ちのぼり
父親の姿が浮かんできて
その挙動がくっきりしてきたとき
詩人は蓮池のほとりから離れます。
 
一歩一歩ではなく
一歩二歩と歩き出すのは
「足早に」というニュアンスがあります。

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