「白痴群」前後・片恋の詩15「みちこ」
その1
「夏は青い空に……」や
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」や
「身過ぎ」は
昭和4年(1929年)6月に作られた(推定)のですが
この年の終わり頃に
妖艶な女体美を歌った「みちこ」が作られ
昭和5年1月1日付け発行の「白痴群」第5号に発表されます。
この「白痴群」には
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「みちこ」
「嘘つきに」の4篇が発表されますが
「山羊の歌」では
「少年時」の章の次の章に
「みちこ」の章が設けられ
「みちこ」
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――の5篇が配置されるのですから
眩暈(めまい)を覚えるほどの多彩な展開です。
クラクラしてしまいます。
これらすべてが
「恋愛詩」と呼んで差し支えない詩ですから
中原中也の恋愛詩は
恋愛詩に限りませんが
一本調子のものではなく
まことに「多面体」です。
◇
みちこ
そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。
またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。
またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。
しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。
◇
あなたの胸は海のよう
大きく大きく寄せ上がる。
遥かな空、青い波
涼しい風もが吹き添って
磯が白々と続いている。
あなたの目にはあの空の
果ての果てまでをも映し
次々に並んでやって来るなぎさ波が
とても速く移ろっていくみたい。
あなたの目は
見るともなしに、真帆方帆。
沖行く舟に見とれてる。
またその額の美しいこと!
物音に驚いて
昼寝から目覚めた牡牛のように
あどけなく
軽やかでしとやかに
頭をもたげたかと見る間に
打ち臥してまたまどろむ。
しどけない、あなたの首筋は虹
力ない、赤ん坊のような腕で
糸・唄・合わせ・速き・節。
歌曲の速いフレーズに乗って
あなたが踊ると
海原は涙ぐんで金色の夕日をたたえ
沖の瀬は、いよいよ遠く
向こうの方に静かに潤っている
空に、あなたの息が絶えようとする
その瞬間を
僕は見た。
◇
ああ、みちこ
きれいだ。
――と末尾にあっては蛇足でしょうか。
◇
その2
みちこ
そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。
またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚(なぎさ)なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。
またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。
しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましき金(きん)にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶ゆるとわれはながめぬ。
◇
「みちこ」ははじめ
「白痴群」第5号(昭和5年1月1日発行)に
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「嘘つきに」
――とともに発表されました。
「白痴群」誌上で「みちこ」を歌ったことは
「詩友」である泰子が「白痴群」に寄稿しているのを思えば驚きですが
「山羊の歌」では
「みちこ」の章を置いた上で
「みちこ」を
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――とともに配置するのですから
「山羊の歌」編集の時点では
泰子はより「客観化」されたといえるでしょう。
泰子を「一人の女性」として位置づけ
距離が置かれた印象です。
◇
「山羊の歌」には
泰子らしき女性をモデルにした恋歌が
多様な「フォルム」の詩になって散りばめられているのですが
「みちこ」のように
泰子ではなさそうな女性がたまに登場し
「恋愛詩」の多面体に花を添えるのです。
◇
胸(むね)
目(め)
額(ひたい)
項(くびすじ)
腕(かいな)
……
「みちこ」は
女性の肉体の一つひとつを
これでもかこれでもかと賛美しますが
いっこうにエロチックではありません。
よく読むと
胸を賛美して海
目を賛美して空
額を賛美して牡牛
……と女性を自然になぞらえて賛美していて
それが「擬自然法」という「技」であることに気づかされます。
詩人が意識していたかは分かりませんが
象潟や雨に西施が合歓の花
(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)
松尾芭蕉の名句で使われている
古典的詩法です。
◇
大岡昇平は「みちこ」を
ボードレール風の感傷的淫蕩詩と評していますが(「朝の歌」中の「片恋」)
感傷的なところなど見当たらず
「みちこ」を淫蕩詩と呼ぶには
透明過ぎる気がします。
中原中也の肉体賛美は
自ずと精神の賛美で
倫理的なるものや
思想的なるものを
賛美したものではありません。
失われてしまった恋であるゆえにか
遠い日の恋であるゆえにか
人間くささがないのは
この「擬自然法」が利いているからでしょう。
« 「白痴群」前後・片恋の詩14「身過ぎ」 | トップページ | 「白痴群」前後・片恋の詩16「妹よ」 »
「「白痴群」前後」カテゴリの記事
- 「白痴群」前後・片恋の詩17「時こそ今は……」(2014.02.06)
- 「白痴群」前後・片恋の詩16「妹よ」(2014.02.06)
- 「白痴群」前後・片恋の詩15「みちこ」(2014.02.06)
- 「白痴群」前後・片恋の詩14「身過ぎ」(2014.02.06)
- 「白痴群」前後・片恋の詩13「夏は青い空に……」(2014.02.06)