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「白痴群」前後・片恋の詩15「みちこ」

その1
 
「夏は青い空に……」や
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」や
「身過ぎ」は
昭和4年(1929年)6月に作られた(推定)のですが
この年の終わり頃に
妖艶な女体美を歌った「みちこ」が作られ
昭和5年1月1日付け発行の「白痴群」第5号に発表されます。
 
この「白痴群」には
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「みちこ」
「嘘つきに」の4篇が発表されますが
 
「山羊の歌」では
「少年時」の章の次の章に
「みちこ」の章が設けられ
「みちこ」
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――の5篇が配置されるのですから
眩暈(めまい)を覚えるほどの多彩な展開です。
クラクラしてしまいます。
 
これらすべてが
「恋愛詩」と呼んで差し支えない詩ですから
中原中也の恋愛詩は
恋愛詩に限りませんが
一本調子のものではなく
まことに「多面体」です。
 
 
みちこ
 
そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。
 
またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。
 
またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。
 
しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。
 
 
あなたの胸は海のよう
大きく大きく寄せ上がる。
遥かな空、青い波
涼しい風もが吹き添って
磯が白々と続いている。
 
あなたの目にはあの空の
果ての果てまでをも映し
次々に並んでやって来るなぎさ波が
とても速く移ろっていくみたい。
 
あなたの目は
見るともなしに、真帆方帆。
沖行く舟に見とれてる。
 
またその額の美しいこと!
物音に驚いて
昼寝から目覚めた牡牛のように
あどけなく
軽やかでしとやかに
頭をもたげたかと見る間に
打ち臥してまたまどろむ。
 
しどけない、あなたの首筋は虹
力ない、赤ん坊のような腕で
糸・唄・合わせ・速き・節。
 
歌曲の速いフレーズに乗って
あなたが踊ると
海原は涙ぐんで金色の夕日をたたえ
沖の瀬は、いよいよ遠く
向こうの方に静かに潤っている
空に、あなたの息が絶えようとする
その瞬間を
僕は見た。
 
 
ああ、みちこ
きれいだ。
――と末尾にあっては蛇足でしょうか。
 
 
その2
 
みちこ
 
そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。
 
またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚(なぎさ)なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。
 
またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。
 
しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましき金(きん)にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶ゆるとわれはながめぬ。
 
 
「みちこ」ははじめ
「白痴群」第5号(昭和5年1月1日発行)に
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「嘘つきに」
――とともに発表されました。
 
「白痴群」誌上で「みちこ」を歌ったことは
「詩友」である泰子が「白痴群」に寄稿しているのを思えば驚きですが
「山羊の歌」では
「みちこ」の章を置いた上で
「みちこ」を
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――とともに配置するのですから
「山羊の歌」編集の時点では
泰子はより「客観化」されたといえるでしょう。
 
泰子を「一人の女性」として位置づけ
距離が置かれた印象です。
 
 
「山羊の歌」には
泰子らしき女性をモデルにした恋歌が
多様な「フォルム」の詩になって散りばめられているのですが
「みちこ」のように
泰子ではなさそうな女性がたまに登場し
「恋愛詩」の多面体に花を添えるのです。
 
 
胸(むね)
目(め)
額(ひたい)
項(くびすじ)
腕(かいな)
……
 
「みちこ」は
女性の肉体の一つひとつを
これでもかこれでもかと賛美しますが
いっこうにエロチックではありません。
 
よく読むと
胸を賛美して海
目を賛美して空
額を賛美して牡牛
……と女性を自然になぞらえて賛美していて
それが「擬自然法」という「技」であることに気づかされます。
 
詩人が意識していたかは分かりませんが
 
象潟や雨に西施が合歓の花
(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)
 
松尾芭蕉の名句で使われている
古典的詩法です。
 
 
大岡昇平は「みちこ」を
ボードレール風の感傷的淫蕩詩と評していますが(「朝の歌」中の「片恋」)
感傷的なところなど見当たらず
「みちこ」を淫蕩詩と呼ぶには
透明過ぎる気がします。
 
中原中也の肉体賛美は
自ずと精神の賛美で
倫理的なるものや
思想的なるものを
賛美したものではありません。
 
失われてしまった恋であるゆえにか
遠い日の恋であるゆえにか
人間くささがないのは
この「擬自然法」が利いているからでしょう。

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