「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年11月1日
詩集の出版は彼の非常な期待にも拘らず又しても失敗に終ってしまった。
「手紙81 9月21日 (封書)」へのコメントを
安原は1行で終わりにします。
◇
それから40日あまりの時が流れ
詩人は、東京・四谷の花園アパートに戻っています。
この間に何が起こったのでしょうか?
連続が断ち切られ、しかし連続している。
「断続」を感じざるをえません。
何か新しいことが起こっているような感じ
今まであったものがなくなっていく感じ。
それが何であるかを特定できませんが。
◇
「手紙82 11月1日 (はがき)」(新全集は「156」)
ごぶさたしました 御機嫌のことと思っております 僕事部屋の掃除をしたり本をよんだりです 毎日3人位は誰かが来ますので仕合せです 偶に誰も来ない日があると淋しくてやりきれません 夜の9時に至って遂におでん屋に出かけるというようなことになります 過日18日男の子が生れました ちと勉強しなけあなりません 御退屈の時御遊びにおいで下されば幸甚です 二ちゃんは只今金沢に行っています 来春ランボオ全集を出すことになりました
◇
とりわけ、「詩集」に何か変化があったのかが気になります。
しかし、「詩集」は表面に出てきません。
詩集というよりも
第一子が誕生し
詩人は「ドメスティックな幸福」のひとときを味わっていた時期でした。
ですから、詩集のことは
触れられていませんが……。
◇
「詩集」の動きと関係ありそうなのが
「二ちゃん」と「ランボオ全集」です。
二ちゃんが金沢へ行っているというのは
骨董の買出し旅行か何かに出ているということに違いなさそうです。
「詩集の装丁」はすでにその二ちゃん(青山二郎)が一任されていたはずなのに
金沢に出かけていて
詩集は進捗していない……
代りにといえば語弊(ごへい)が大いにありますが
「ランボオ全集を出す」という話が詩人に湧いていたのです。
詩人として食っていく身に
「翻訳」は一つの大きな「手段」でした。
建設社という出版社の企画で
ランボオ全集発行の計画があり
詩人は「韻文詩の翻訳」を担当することになったのです。
小林秀雄が「散文詩(地獄の季節)(飾画)」
三好達治が「書簡(散文)」という布陣でした。
◇
この企画の担当編集者は伊藤近三という人で
「手紙83」に「伊藤さん」として登場しますが
この伊藤の動きが「ランボオ全集」と「山羊の歌」を結んでいることが想像できます。
建設社は「ジイド全集」を刊行中で
その編集長をしていた伊藤は
「山羊の歌」を出すことになる文圃堂社主の野々上慶一と小林秀雄を仲介した人ですから
伊藤の出現が「山羊の歌」の発行に
大きなスプリング・ボードの役割を果たしたことは間違いありません。
◇
花園アパートの「人脈」が
中原中也を「文壇」とか「メージャー」とか「中央」とかへ
グイグイと引っ張っていく、そのはじまりのような光景です。
「手紙81」は
長男誕生のさりげない報告のようですが
背後には花園アパ-トの「蠢(うごめ)き」がありました。
建設社の企画は、結局は流産するのですが
中原中也はこの時から
ランボーの翻訳に没頭します。
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