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生きているうちに読んでおきたい名作たち5・「幻影」の過去形ナレーション

その1

「幻影」は
「在りし日の歌」の最終章「永訣の秋」の中で
「一つのメルヘン」に続いて配置されていることと
「でした」で終わる行末の語り口調(ナレーション)によって
連続しているような錯覚を抱くような詩です。

そのうえ、
「幻影」の月光下のピエロの映像と
「一つのメルヘン」の夜の陽光のシーンとは
ともにスポットライトを投じられた舞台を見ているかのよう。
二つの似かよった詩世界が連続し
一瞬、めまいに襲われるような不思議な気持ちになります。

あの蝶がピエロに変身したのではないか?
――という錯覚にとらわれるのです。

中原中也の全詩を通じても
「です・ます調」の過去形「でした」を使う例はめずらしく
その「でした」が2作品に続いているのです。

「在りし日の歌」をざっとめくっても
「ぽっかり月が出ましたら、舟を浮べて出掛けましょう」(湖上)
「みなさん今夜は静かです 薬鑵の音がしています」(冬の夜)
「赤ン坊ではないでしょうか」(春と赤ン坊)
「――色々のことがあったんです」(初夏の夜)
「あれは人魚ではないのです」(北の海)

「山羊の歌」を見ても
「春の日の夕暮は穏かです」(春の日の夕暮)
「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」(サーカス)
「なんだか父親の映像が気になりだすと一歩一歩歩みだすばかりです」(黄昏)
「水汲む音がきこえます」(更くる夜)
「私の上に降る雪は 真綿のようでありました」(生ひ立ちの歌)
「そこはことないけはいです」(時こそ今は…)
「九歳の子供がありました 女の子でありました」(羊の歌)
――といった具合に
みんな現在形の「です」「ます」と
過去形は「ました」ばかりで
過去形「でした」はありません。
「でした」は
「一つのメルヘン」と「幻影」だけに使われているのです。

(※新かな表記で示しています。編者。)

それが何を意味しているのかなどと
分析したり研究したりするつもりではありません。

「一つのメルヘン」や「幻影」が
いっぽうは「メルヘン」(童話)
いっぽうは「イリュージョン」(幻想)の形で
詩人が語るやさしい口ぶりに
「でした」がこの上もなくピタリと決まっていることを味わいたいだけのことです。

ただでさえ
「だ」「なのだ」を多く使う詩人が
ここ「在りし日の歌」の最終章(最晩年の詩作)へきて
静かなやさしい口調で歌う調べの安らかな響き――。
それを感じるだけで
これらの詩に近づいた気分になります。

幻 影
 
私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗(しゃ)の服かなんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あはれげな 思いをさせるばつかりでした。

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見ているやう――
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集委員会によるものです。

その2

ナレーションの形をとることによって
詩人の歌おうとする詩世界は
詩人から一定の距離が置かれることになり
読者はナレーターの口を通じて
詩人のメッセージなり歌なりを聴くことになります。

詩人の赤裸々な内面や心の中は
ワンクッション置かれることになり
読者と作者との間にも一定の距離が置かれることになるため
読者はある意味で安心して詩を味わう姿勢を得ることができます。

これを物語の詩と呼ぶことができるなら
「一つのメルヘン」も「幻影」も
そのグループに入ることでしょう。

二つの詩は
過去形「でした」が
その物語を語る口調として使われ
絶妙な味を出している例です。

ですから
この二つの詩は切り離して読むことよりも
ペアの作品として読むと
新たに見えてくるものがあります。

それにしても

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命そうなピエロがひとり棲んでいて、
それは、紗(しゃ)の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びているのでした。

――と、「私の頭の中」に現われるピエロは
「一つのメルヘン」の蝶の化身のように思えませんか?

水無し川の小石に舞い降り
淡く、くっきりとした影を落としていた蝶は
しばらくして消えてしまい
蝶が消えた途端に
川床に水が流れ出す。

水が流れ出すための触媒の役を果たすのですが
水が流れはじめたことの驚きや斬新な気持ちが強くて
蝶の「その後」などに関心がいくはずもなく
メルヘンは完結したかのようでした。

しかし、水が流れ出しただけのことで
物語はまだなにもはじまっていません。
そこで詩人は
物語の続き(内容)を「幻影」という詩に託した――。

 

「幻影」を
このように読むのは
あまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)というものでしょうか?

 

 

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