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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日

その1
 
ようやく「山羊の歌」は出版されることになります。
 
安原喜弘は努めて冷静に
報告します。
 
 
 詩集「山羊の歌」は遂に同年12月10日を以て東京文圃堂から出版されることとなった。本文印刷より丸2年余、いろいろの経緯を踏んだこの詩集もここに日の目を見ることとなったのである。
 
 これは大正13年春から昭和6年頃まで足かけ8年間の彼の魂の結晶の中から詩人の手によって44篇の作品が撰ばれ収録されたものである。
 
 四六倍判、薄鼠色コットン紙使用、番号入り200部限定自費出版、うち150部市販、50部を予及び各方面への寄贈本とした。頒価3円50銭。
 
 装幀は高村光太郎氏である。薄クリーム色の厚紙の地に朱と黒と金泥を以て「山羊の歌・中原中也」と達筆な毛筆書の題字のみの簡素な出来栄えであった。
 
 (講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「洋数字」に変え、「行アキ」を加えました。編者。)
 
 
「出版決定」のニュースにとどまらず「出版後」へも言及され
いつしか詩集の売れ行きや評判などへのコメントが続けられます。
 
そして、文末に至って
 詩人は詩集の出版をすませると、妻子の待つ山口に帰り、そこに翌昭和10年の春まで留まった。
――と詩人のその後を追います。
 
 
10月18日に生まれた長男は、文也と命名されましたが
詩人はまだ顔を見ていません。
眼病を患っていた妻孝子のその後はどうだろう、元気にしているだろうか。
 
寄贈本へ、献辞を添え、署名し
あわただしくそれらを発送した足で
詩人は郷里へ向いました。
 
この帰郷が長い滞在になるのは
「ランボオ全集」の翻訳という仕事があるためでした。
 
詩人の「命」そのものともいえる詩集の出版を果たし
結婚そして第一子誕生と「公私」ともに充実したこの時期の帰郷――。
 
新年を親族兄弟のいる実家で迎える詩人の
初めての大きな仕事が「ランボオ全集」でした。
 
 
詩集の出版をすませ
妻子の待つ山口に帰り
翌10年の春まで
――と、安原は簡明に詩人のその後を記したのです。
 
これが11月15日発の詩人の手紙へのコメントでした。
 
 
そして……。
1か月半の時が流れます。
 
この1か月半の間に
詩集発行のための実作業が行われます。
装幀を高村光太郎に依頼したのもこの期間です。
 
年も押し迫って
12月30日発の手紙が
安原の元へ届きます。
 
 
「手紙84 12月30日 (封書)」(新全集は「161」) 山口市 湯田
 
御葉書拝見致しました。おたよりしようと思乍ら遂に今日になりましたが自分がいやで何もかも億劫となるのでございます
先日は詩集の案内書お送り被下有難うございました
本日は又結構な物頂戴致し難有厚御礼申し上ます 家内一同大喜び致しました 
 右とりいそぎ御礼迄 最近書きましたもの同封致します
 
 
 
その2
 
「山羊の歌」が
出版決定から装幀、印刷・製本、出版へと至るには
越えねばらないヤマがまだ一山(ヒトヤマ)二山(フタヤマ)とありましたが
その間の報告は「中原中也の手紙」にありません。
 
この1か月半に
手紙の交換はなかったか
あっても手紙が残らなかったのです。
 
この間の消息は
したがって、想像するほかに
知人、友人、関係者らの証言・資料に頼るほかにありません。
 
 
「山羊の歌」が文圃堂から出版されるのには
小林秀雄のバネのような役割があったようです。
文圃堂社主・野々上慶一を詩人に紹介したのが小林秀雄でした。
 
小林は「文学界」の編集責任者であり
今や文壇をリードする勢いの位置にありました。
小林の薦めで文圃堂が「文学界」の発行元になったのは
昭和9年の春からです。
 
「山羊の歌」の出版元が決まるいっぽうで
「装幀者旅行中」のピンチヒッターとして登場したのが
高村光太郎でした。
 
先に行われた「歴程」の朗読会で
「サーカス」を朗読した詩人は
主催者の草野心平と昵懇(じっこん)になります。
 
草野が高村の装幀を薦めたのか
文圃堂から刊行中の「宮沢賢治全集」を見ていた詩人が
草野に高村の装幀を仲介してくれるよう頼んだのか
どちらが言い出したかというより
自然の流れで高村の名があがり
詩人も高村の装幀を強く希望したということらしい。
 
文圃堂の野々上慶一が草野を通じて
高村に頼んだというルートの話も同時的にあったようです。
草野心平は高村光太郎、横光利一とともに
「宮沢賢治全集」の編集を担当していました。
 
 
安原が
この間の経緯に触れないのは
手紙が残されていないからでした。
 
この期間に詩人と安原は「沈黙」を残したのです。
この沈黙こそ、
「中原中也の手紙」の中の
おそらくは最も美しいシーンです。
「中原中也の手紙」が後世に残した
最も感動的な伝説の源(もと)です。
 
 
大晦日の前日に
詩人は安原にこの年最後の手紙を送りました。
 
 
「手紙84 12月30日 (封書)」(新全集は「161」)に同封されていたのは
「薔薇」とタイトルのある毛筆の詩でした。
 
第1連に「ばら」の振りガナがあり
第2連には「さうび」の振りガナがあるので
タイトルを「バラ」と読むか
「ソウビ」(古語)「ショウビ」(現代語)と読むか
読み手に委ねられた格好です。
 
 
薔薇
 
開いて、いるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇の、花じゃろ。
 
しんなり、開いて、
こちらを、むいてる。
蜂だとて、いぬ、
小暗い、小庭に。
 
ああ、さば、薔薇(そうび)よ、
物を、云ってよ、
物をし、云えば、
答えよう、もの。
 
答えたらさて、
もっと、開(さ)こうか?
答えても、なお、
ジット、そのまま?
 
(1934、12、)
 
 
詩人は
年内最後になる創作詩を12月29日に作りました。
(なんにも書かなかったら)という3節構成の未完成作品でした。
 
「山羊の歌」出版直後に制作した詩は
「星とピエロ」「誘蛾燈詠歌」と
この(なんにも書かなかったら)だけです。
 
第1詩集を江湖に問うた詩人が
あわただしさから解放されて
じっくり「詩集」を歌った詩でした。
 
その第2節を独立した詩として
安原にプレゼントすることにしたのです。
 
 
山口、湯田温泉の
自室の机に向かう詩人の姿が浮かんできます。
 
昨日書いた(なんにも書かなかったら)を取り出し
筆を走らせる詩人の胸のうちに
のぼってくる暖かい暖かい思い。
 
闇に浮かんでくるのは
薔薇のような――。
 
 
その3
 
「薔薇」の元になった詩を
ここで読んでおきましょう。
 
この詩の第1節末尾にだけ日付けがあることから
第1節がはじめに作られ
次に第2節、3節が作られたものと解釈されています。
(「新全集」第2巻 詩Ⅱ解題篇)
 
「山羊の歌」の1冊を手にして
ひと通りめくってみた詩人が
感慨を込めて自己批評したような内容です。
 
ふと口を洩れ出たのは
「何をくよくよ川端やなぎ」という小唄でしたが
「よくも言ったもんだよ、くよくよするなよ、川端やなぎ、とはね!」 と
その小唄を「だ」と突き放す詩人がいます。
 
風に吹かれて
おもむくままの柳の木に
自身を重ねて見ていたことに違いはありません。
 
 
(なんにも書かなかったら)
 
なんにも書かなかったら
みんな書いたことになった
 
覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだった
 
夕陽に向って、
野原に立っていた。
 
まぶしくなると、
また歩み出した。
 
何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……
 
土手の柳を、
見て暮らせ、よだ
 
    (一九三四・一二・二九)
 
   2
 
開いて、いるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇(ばら)の、花じゃろ。
 
しんなり、開いて、
こちらを、向いてる。
蜂だとて、いぬ、
小暗い、小庭に。
 
ああ、さば、薔薇(そうび)よ、
物を、云ってよ、
物をし、云えば、
答えよう、もの。
 
答えたらさて、
もっと、開(さ)こうか?
答えても、なお、
ジット、そのまま?
 
   3
 
鏡の、ような、澄んだ、心で、
私も、ありたい、ものです、な。
 
 鏡の、ように、澄んだ、心で、
 私も、ありたい、ものです、な。
 
鏡は、まっしろ、斜(はす)から、見ると、
鏡は、底なし、まむきに、見ると。
 
 鏡、ましろで、私をおどかし、
 鏡、底なく、私を、うつす。
 
私を、おどかし、私を、浄め、
私を、うつして、私を、和ます。
 
鏡、よいもの、机の、上に、
一つし、あれば、心、和ます。
 
ああわれ、一と日、鏡に、向い、
唾、吐いたれや、さっぱり、したよ。
 
唾、吐いたれあ、さっぱり、したよ、
何か、すまない、気持も、したが。
 
鏡、許せよ、悪気は、ないぞ、
ちょいと、いたずら、してみたサァ。
 
(「新編中原中也全集」第2巻 詩Ⅱより。「新かな」に直しました。編者。)
 
 
追加された第2節、第3節の
第2節が独立して「薔薇」と題され
安原喜弘に贈られました。
 
第3節は
「鏡」をモチーフにした
「私」への励ましのようでした。

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