「一筆啓上、長谷川泰子・ばあや様」昭和7年2月19日ほか
昭和7年(1932年)の年明け2番目の手紙は
「80 2月2日 安原喜弘宛 葉書」ですが
後半部は佐規こと長谷川泰子およびその子ども茂樹のことです。
◇
佐規の子供に会いました 面白いです 酒を飲んでいる真っ際中 奴のことを思いだしたりして、どうも大変甘(あま)いです、今月末は少し余裕がある筈なので、汽車の玩具でも買ってやろうと思います 不備 さようなら
――と、ここでも余裕ができたことを示します。
余裕があるときに
泰子(佐規)を思い出すのか、茂樹を思い出すのでしょうか
「84 2月19日 長谷川泰子・ばあや宛 葉書(速達)」は
直接、泰子宛に出した手紙が残りました。
◇
茂樹の耳のキズには「アエンカオレーフ油」を直ぐに買っておやりなさい。5銭も買えば沢山でしょう。
お湯に這入った時、キズを洗わないよう。
――と、当時、中野に住んでいた泰子への心遣いです。
「ばあや」は、茂樹の世話係として泰子が雇っていた女性。
「アエンカオレーフ油」は、詩人が医者の息子だったから知っていたのか
一般によく知られた薬だったのか
皮膚炎などへの塗布剤。
2月2日の葉書で「会いました」と記されていますから
この時に茂樹のキズを知ったのでしょう。
◇
余裕が出てきてやる気に満ちてきた勢いは
詩人を旅へと誘(いざな)います。
帰省のついでなのですが
京都に寄り、尾道にも寄る計画の旅でした。
「86 2月29日 葉書」には
僕の京都通過は7日か8日頃になるでしょう。
「87 3月4日 葉書」には
明5日夕刻7時50分頃京都着します
4日朝
「88 3月7日 葉書」には
尾道には寄らないで、今朝こちらに着きました
――などと、楽しげに帰省および京都訪問の輪郭が書かれています。
◇
みんな安原喜弘へ宛てたものですが
京都での安原との再会は
安原の山口訪問へとつながっていきます。
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