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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年2月10日

その1
 
昭和8年の暮れに引越しを済ませたのは
昭和9年を「花園アパ-ト」ではじめたかったからでしょうか。
 
故郷山口県・湯田温泉で挙式した後、
新居を新宿・花園町の青山二郎が住むアパ-トに構え
やがて長男が生まれ
一家の主となる詩人――。
新しい年がはじまりました。
 
 
花園アパート2号館30 電5559 中也
――これが、新宿の新居から安原へ送った初の手紙の発信元でした。
電話もありました。
 
四谷区とか豊多摩郡とかを省略して
いきなり町名とアパート名でした。
 
その後は、谷町に引っ越す昭和10年6月まで
四谷花園アパート 中原中也
四谷花園町95 花園アパート 中原中也
東京四谷花園町95 花園アパート 中原中也
――などと、市区名を入れていますが
表記は一定していません。
 
アパート名が町名とがダブっているため
その都度、同語反復が気になったのでしょうか。
 
 
「舵を切った」感じ、
「スイッチを入れた」感じ、
「ギア・チェンジした」感じ
――があります。
 
安原喜弘が心配していた魂の動乱や内臓の病気は
どこかへ消えてしまったかのような年明けですが……。
 
 
第1便は「手紙71 2月10日 (封書)」(新全集では「136」)。
全文を読みましょう。
 
 
お葉書拝見僕こそ大層御無沙汰しています
御風邪の由 何卒御養生専一に願上げます
蓄音器は先月末に買ったのですが、吉田が欲しがっていましたからその方へ葉書出してみましょう
 
僕事 シェストフの本を読んだり、小林から「おまえが怠け者になるもならないのも今が境いだ」と云われたりしたことから ここもと丹田に力を入れることが精一杯になっているのです
 
池谷が死んだり嘉村が死んだり佐々木味津三が死んだり なんだか砂混りの風が吹いているような気がします どうもウスラ悲しい時代だということはどうもほんと 考えあぐんだ上で、からだの調子がよいということが万事にもまして大事だと思います
 
その次にはハキハキとするということ。尠(すくな)くも文壇はハキハキしていません これが神経ある者のからだを損う一大原因だと思います
 
(「行空き」を加えてあります。編者。)
 
 
途中ですが、今回読むのはここまでにします。
 
 
「丹田に力を入れること」とあり
それは、新年にあたってということでもありますが
小林秀雄から厳しく叱咤(しった)されて奮起したということのようです。
 
「おまえが怠け者になるもならないのも今が境いだ」とは
詩人の未来を「鷲(わし)づかみ」にしたような直言で
詩人は、これを真正面から受け止めようとしているようです。
 
近辺で作家の死が相次いで
時代が砂混じりの風が吹いているようでもあるし
からだの調子がよいことが大事と自身の体調を気遣い
文壇のふがいない状況へなんらモノを言わないでは
その大事なからだを損うとまで不満を洩らします。
 
 
自身のからだを気遣うことの上に
文壇状況へ眼を向けるというところにまで
この年初めに、詩人はいるのです。
 
 
 
その2
 
「手紙71 昭和9年2月10日」(新全集では「136」)は
中原中也が新宿の花園アパートに住みはじめ
年を越してから初めて安原に出したものです。
 
大森・北千束が「京浜」の一角であるのに比べれば
角筈(つのはず)や歌舞伎町と隣合せの新宿・花園は
上野、浅草、銀座といった町に次ぐ「大都会」ですから
「表舞台」に出てきたような感覚があったでしょう。
 
 
以前青山二郎が麻布一ノ橋に住んでいた4軒長屋は
隣りに永井龍男が住み
小林秀雄、河上徹太郎を主な客として
中島健蔵、今日出海、大岡昇平そして中原中也も出入りしていたことから
後に「青山学院」と称するようになったとは大岡昇平の案内ですが
花園アパートでも同じような状況が生まれました。
こちらを「青山学院」とみなすことが多くなっています。
 
花園アパートは3階建て3棟もある大きな「文化住宅」で
青山は1号館の1階(はじめ10畳、後に6畳を借り足し2間続きの部屋)に住み
中原家は2号館2階の6畳、3畳の2室を借りました。
孝子夫人とともに暮らしはじめたのです。
 
 
昨年(2012年5月)に亡くなった吉田秀和は
安原の成城学園の後輩で
当時、東京帝大生(仏文科)でした。
同学園の教師であった阿部六郎や村井康男が
「白痴群」の同人であったという関係ですから
中原中也と吉田が知り合った流れも容易に想像ができます。
 
詩人が阿部六郎の砧の住まいを訪れたとき
そこに居合わせた吉田と詩人は出会いました。
昭和5年(1930年)でした。
以来3年になる交友です。
 
安原家で不要になった蓄音機の引き取り手に
吉田が名乗りをあげ
詩人は仲介の労をとったのですが
この話は成立しませんでした。
(※「手紙72 2月12日」も、蓄音機に関するやりとりだけのものです。)
 
吉田秀和は
やがて日本の音楽評論を確立し発展させたビッグネームになりますが
「手紙71」には
日本の現代(文学)評論の分野を切り開きはじめた小林秀雄が
「中央」で活躍しはじめた気配が伝わってきます。
 
小林は、河上徹太郎とともに
中央文壇の一角を占める「文学界」の編集者の位置にありました。
自ら書きながら
書き手を発掘し育てる側に存在していましたから
詩人は発表の場を小林らを通じて確保できたのです。
 
 
シェストフは、河上徹太郎と阿部六郎の共訳で「悲劇の哲学」が刊行され
それを読んでの言及でしょうか
池谷(信三郎)、嘉村(磯多)、佐々木(味津三)は、
中央で発表している作家たちでした。
 
これらの人物はみな「中央」で
活字になっている人々です。
 
 
花園アパートには
「中央」に通じる太いパイプがありました。
「だから」という感想をひとことも述べているわけではありませんが
安原は、この手紙にコメントして
 
しかし私はこれらの仲間からは意識して次第に遠のいていった。
私達は前程頻繁には会わなくなった。
――と記しています。
 
 
ここで、「手紙71 2月10日」の後半部を読んでおきましょう。
 
街の灯 一昨日みました 余り面白くは感じませんでした クーガンが硝子(ガラス)を割って歩くと、あとからガラス屋のチャップリンが一番歌っていました「こうしたい」という所で凝らないで「こうしたらどう見える」と言う所で凝っています うまさが目的になった人の 力の空虚が街の灯全篇に漂っているということは あんまり主観的な云分でしょうか。
 
御養生専一に 何時かまたシタタカあおりましょう
    2月10日                中也
 
 
チャールズ・チャプリンの映画「街の灯」の感想ですが
「批評の眼」の鋭さは
現代映画評論が及ばない炯眼(けいがん)というべきで
「中央」が意識されていないともいえません。

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