「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年12月6日、15日
中原中也が、フランス語を初めて聴いたのは
1924年、富永太郎が京都を訪れた時のことでしょうか。
語学の天才といわれる富永の流れるような鼻濁音を
直に肉声で聴いた詩人が
ランボーやベルレーヌらの詩に魅惑されたのと同等の衝撃を
フランス語そのものから受けたことを想像できます。
上京して
小林秀雄を知り
河上徹太郎を知り
……
彼らの師である東京帝大フランス文学科の教官・辰野隆や
鈴木信太郎らの面識を得たり
フランスへ渡航する準備をしていた高田博厚と相知ったり
……
上京して1年後の昭和元年(1926年)にアテネ・フランセへ通いはじめ
昭和2年にはランボーの翻訳に手を染め
昭和3年には大岡昇平とランボー翻訳で競作したり
昭和6年(1931年)から2年間、東京外語専修科でみっちり勉強し
外語を卒業後の昭和8年4月からは私宅でフランス語の個人教授を始めた
――など詩人のフランス語への取り組みは
伊達(だて)な域を超えていました。
◇
富永の流暢なフランス語を実際に耳で
それも近くで喋る発音を聴いたのは
幸運という言葉通り
「運命」といえるものでしょう。
同じく「ランボー」「ベルレーヌ」との出会いも
「運命」といえるものでしょう。
この間ずーっとモチベーションを持続できた所以(ゆえん)ともいえます。
フランス語は、「生計」への希望でもありました。
詩で身を立てることを実現するために
「翻訳」は収入の道としての可能性が高かったからです。
◇
結婚を機に詩人は
詩作と翻訳にいっそうエネルギーを注ぎました。
◇
「手紙68 11月10日」で
「僕女房貰うことになりました」と書いた詩人は
「手紙69 12月6日」でも
「文字通り忙しかったものですから失敬しました」と
どこまでもさりげないのですが、
自信が漂います。
そして、年内には
新宿・花園アパートへしっかりと引っ越します。
◇
「手紙69 12月6日 (はがき)」 山口市・湯田
お手紙拝見しました、文字通り忙しかったものですから失敬しました 今日漸く暇になり、荷造りを始めようと思っています 上京の上は、今度はアパートに這入りますので、電話もあり、何卒ユルリtお遊びに来て下さいまし
とりあえず右迄 拝顔の上 怱々
◇
「手紙70 12月15日 (はがき)」 東京、四谷・花園町
表記に移りました
御帰京次第に電話下さいませんか
まだ何かとごたごたして 気持が落着きません 買物に出掛けては必ず一つ二つ
忘れて帰って来ます 怱々
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