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中原中也が訳したランボーの手紙・その4

中原中也が翻訳したランボーの手紙の4番目
「パンヴィル宛書簡1870年5月24日」は、
「ヴァリエテ」第6号(昭和9年6月5日発行)に発表されました。
1870年5月24日付けでテオドール・ド・バンヴィルに宛てたもので
一度、眼を通しましたが再び読んでおきましょう。

ランボー15歳。
「酔いどれ船」を書く1年以上も前で
シャルルヴィル高等中学校の修辞学級の担当教官イザンバールの
生徒であったランボーは
フランス中央詩壇へのデビューを画策し
重鎮テオドール・ド・バンヴィルに
「現代高踏詩集」への自作詩の掲載を申し入れました。

ベルレーヌを知る以前に戻ります。

中原中也の15歳は、
歌集「末黒野(すぐろの)を共作した年(1922)で、
この学年度末(翌年3月)に落第を通告されました。

ランボーとは、およそ50年の隔たりがありますが
目指しているところは
大同小異といった印象です。

中原中也が
山口中学を落第した頃、
「中央」を意識していなかったという証拠はないはずですから。

「新字・新かな」表記で読みます。
洋数字に変換したところもあります。
文語的表現などを、一部、ひらがな書きにしました。


本文中の、
Sensationは、中原中也訳では「感動」、Credo in unam「一ナル女性を信ズ」はラテン語のタイトルで、その異稿は、Soleil et chair「太陽と肉体」、Les Etrennes des  Orphelinsは、中原中也訳で「孤児等のお年玉」です。

 *

ランボー書簡4 パンヴィル宛
 テオドール・ド・バンヴィル宛(註。この手紙が最初に発表されたのは1925年10月10日発行のヌーベル・リテレール誌上である)
                  シャルルヴィル(アルデンヌ県)にて、1870年5月24日
 拝啓
 時下春暖の候、小生間もなく17歳になります。(註。彼は16にもなっていなかった。「間もなく」の語は、稿本では書いた上を消してある。) 世間流に申せば、希望と空想の年齢(とし)――さて小生事ミューズの指に触(さわ)られまして――俗調ひらにお許し下さい――信念、希望、感動などすべて詩人がもの――小生それを春のものと呼びたく存じますが――を、表現致し始めました。

 只今その若干を良き出版者ルメール氏を通じてお送り致すにつきまして、理想美に熱中致します全ての詩人、全てのパルナシアンを――かく申しますのは、詩人たるやパルナシアンでございましょうから、――小生は慕っておりますこと申し上げたく存じます。なお、貴下、ロンサールの後裔、1830年代の宗匠の一人、真の浪漫主義者、真の詩人たる貴下を心よりお慕い致していることを申し上げねばなりません。かようの次第にて、無躾とは存じながら、詩稿お送り致します。

 2年後の後、否恐らく1年の後には、小生出京致すでございましょう――(小生もまた)、(訳者註。「小生もまた」はラテン語で書かれてある。) その節は諸兄と共にパルナシアンでございましょう。それからどうなりますことか存じませんが、小生が美の神と自由の神を信奉致して永えに変りませぬことは、お誓いすることが出来ます。

 同封の詩(註。この手紙には、次の諸詩篇が同封されていた。1870年4月20日と日付したSensation. 。1870年4月29日と日付したCredo in unam。これは後にSoleil et chair と改題されたものである。なお、追而書(おってが)きがあり、それは次のようである。《若しこれらの詩篇が「現代詩文集」(パルナス・コンタンポラン)に載っていましたなら、どんなものでございましょう?――これらの詩篇は、詩人等(パルナシアン)の誓約書ともいえるではありますまいか?――小生の名はいまだ知られておりませぬ、が、ともかく詩人は皆互いに兄弟であります――これらの詩篇は信じ、愛し、希望しております。そしてそれが全てであります。先生、何卒小生を御起用下さい。小生はなお稚うございます。何卒お手を伸べて下さいまし……》) 御高覧の程願い上げます。Credo in unamを若し御掲載下さらば、希望と喜びに、小生は狂喜致すことでございましょう。パルナス(註。「現代詩文集」(パルナス・コンタンポラン)の分本の最初の一群は、1866年に出た。次のは1869年以来着手されていたが、戦争のために遅延して1871年に出た。3度目のは1876年に。――ランボーに於けるパルナス礼讃及びそうした傾向が、一時的であったことを強調して考えることは無益なことである。何故なら、やがて彼は浪漫主義をも象徴主義をもパルナス同様瞬く間に汲み尽してしまうのであるから。然しこの手紙の当時には、彼は学生らしい夢をみていたのである。彼は原稿が発表され、田舎を抜け出すことが叶えばとばかり考えていたのである。因みに彼のLes Etrennes des Orphelins は1870年に、《La Revue pour tous 》誌上に掲載されたのである。)のお仲間に加わるを得ば、諸兄等が綱領書(クレド)ともなるでございましょう!
 右熱望してやみません!
                                      Arthur Rimbaud.

※底本を角川書店「新編中原中也全集」とし、「新字・新かな」で表記しました。また、ルビは原作にあるもののみを( )の中に表示しました。読みやすくするための「行アキ」を加えてあります。編者。

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