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焼け跡世代が読んだ中原中也・長田弘の場合

その1

長田弘は1939年生まれですから
北川透(1935~)よりもさらに4年ほど若い世代になります。
いわゆる「焼け跡世代」に属しますが
中原中也を30歳を過ぎて初めて読み
30歳以前に初めて中原中也を読んだ人との違いを強く意識する詩人です。

わたしは、戦後現代詩を読むことからはじめて、詩への具体的な希望とかかわりを否応なく択びとってきたひとりだ。つまり、中原中也についていえば、わたしは中原中也から詩に‘入学’したのではなかったから、中原中也を‘卒業’することがなかった。

そのためにかえって、かつてはおれも中原はよく読んだものだよ、というふうな口ぶりで中原中也を‘卒業’したもののように語る世俗の前垂れのかかった文章に、わたしはいまどのようにもなじむことができない。

そして実際わたしは、ひとがその青春期を脱けだすことによって中原の詩を‘卒業’してゆくことを自称するのとすれちがうように、むしろじぶんじしんの青春との訣れにおいてはじめて中原中也の詩を読んだのであった。

角川書店版「中原中也全集」(いわゆる旧全集)の「月報Ⅵ」にこのように記された
自分自身の青春との訣れ「において」というのは
「の中で」や「と共に」というのよりも
もっと密接な関係を示していて
青春との訣別「と同時に起こった」
個人的体験であったことを示しているようです。

長田弘は
以上の記述に続けます。

わたしの場合、青春との訣れ(もしそう名ざせるものがあれば、としてだが)は、わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという、ごくささやかではあるが、きついできごとのかたちをとった。

この個人的な体験のにがい重量をとにもかくにもじぶんたちだけで息をつめるようにしてじっともちこたえねばならなかったときに、わたしは、ずっと以前に吉野弘の文章のなかでみつけたある短かい詩のフレーズを、そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように突然おもいだしたのだ。中原中也の「月の光」一、二である。

「死児の歌」と題されたこの文の由来が
ここにきて明らかになります。

「月報Ⅵ」の発行日は
昭和46年(1971年)5月20日です。

 *

 月の光 その一

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 *

 月の光 その二

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

その2

1939年生まれの詩人・長田弘が
中原中也の「月の光」(一、二)に出会ったのは
同じ詩人である吉野弘(1926~)が書いた文章の中でのことでした。

それがどのような文章だったか
タイトルも書かれていないのですが
「わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという」
「きついできごと」の最中のことで
「そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように」
思い出したのが吉野弘が案内していた「月の光」だったそうです。

吉野弘がどのようなことを書いていたのかは問題ではなく
中原中也の「月の光」が
「きついできごと」の中でビリビリと感じ取られたということなのでしょう。

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍(ほたる)のやうに蹲(しやが)んでる

「月の光 その二」の最終の2連を引いて
長田弘は

こうした詩がわたしにはまず労働歌のようにやってきたということがわたしにとっての中原中也の詩のはじまりはあり、それがどれほど唐突にまた奇矯にみえようと、このようにはじまったわたしなりの中原の詩とのつきあいかたというものを、わたしは大事にしてゆきたいとおもう。

――と述べています。
そして、次のように続けます。

中原の詩における「死児」のイメージはまさに独特のものであるが、それは究極のところ、わたしたち生きているものの言葉が、わたしたちじしんの死児たちが「蛍の蹲んでるとても黒々とした森」を背後にもつべき言葉であることを、鋭く告知する原像なのではないだろうか?

――と「?」をつけて、投げかけます。

そして、このような問いに
自らこたえるかのように

ようやくいま、中原中也の詩を賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔もなしに読みはじめたばかりだ。

――と、中原中也の世界の入り口に立ったことを述べて、この文章を結んでいます。

こうした出会いを
稀有なものといえるでしょうか?

中原中也との出会いの多くは
このように個人的な体験を通じて
偶然のように
必然のように行われて
普通であるとはいえないでしょうか?

「賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔」もなくというのは
「まっさらで」とか「ゼロの状態で」というものではなく
「偏見なしに」くらいの意味で受け取るとよく
人はいつしか詩を読みはじめることがある、ということを示すものなのでしょう。

 

 

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