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生きているうちに読んでおきたい名作たち2・「春の日の夕暮」の風景

その1

「春の日の夕暮」の冒頭行は
トタンがセンベイ食べて
第3行は
アンダースローされた灰が蒼ざめて

この2行に
辞書は歯が立たない、ということは誰にもわかることですね。

あえて辞書を引くとすれば
トタン。

「食べた途端に毒が回った」の「とたん」でなく
「塗炭の苦しみ」の「とたん」でもなく
「灼けたトタン屋根の猫」の「トタン」にぶつかりますから
トタンがセンベイ食べて、の「トタン」は
この「トタン屋根の猫」の「トタン」であることまでは分かります。

そして、トタンはポルトガル語に由来するらしいので
カタカナで表示することになっているということくらいまでを調べるのは
それなりに意味のあることです。

しかし、それ以上はダメ。
辞書は、そこまで。

第一、
トタンがセンベイを食べるというのですから
これは現実の世界で起こった事象ではなく
擬人法とか比喩とか象徴化とかの
レトリック(修辞)の範囲での読みが必要になってくるからです。

なにかが喩(たと)えられているのだな
なにかが象徴的に表現されているのかな
トタンという主格に人間の行為を見立てた言い方なんだな
――などと読まないと
解き明かせない表現なのです。

それでは、いったい
トタンがセンベイ食べる、とは何か。

あれやこれや考え想像してみたりしますが
なかなかこれだと思えるイメージが結んでこないということもあって
とにかくこの詩を最後まで読んでみることにするのが普通でしょう。

一つの詩を読むとき
まずはひと通りすべての行を追い
終りまで読んで
いったいこの詩はどんな詩なのか
ひと通りざっと読んで
内容やテーマなどに見当をつけ
難しい漢字だとか分かりにくい表現などを
通し読みする過程でチェックするというステップを踏みます。

(つづく)

春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです

吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶《いなな》くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲(あざけ)る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自《み》らの 静脈管の中へです

その2

というわけで詩の行を先へと読み進めると

第2連では
「吁」は「ああ」
「案山子」は「かかし」
「嘲る」は「あざける」と編集者によるルビがあり
「嘶く」は「いななく」と詩人によるルビがあり
読めて意味が通じるので辞書は引きません。

月の光のヌメランと、で少しひっかかりそうですが
「ヌメラン」のなんとなくヌメヌメとした響きは
分かったようになるということで先へ進みます。

第3連では
ポトホトと野の中に伽藍は紅く。

伽藍を「ガラン」と読めれば
ポトホトと、が残るくらいになりますが
読めなければ辞書を引く手間をかければよいのです。

「ポトホトと」や「ヌメランと」は
最近の辞書では収録されているものもありますが
これは中原中也独自のオノマトペ(擬態語・擬音語)ですから
独自に読んだほうがよいということになります。

中原中也は
既存のオノマトペもよく使いますが
ちょっと加工して
新造語にしてしまう名人です。

「ポトホト」は「ポタポタ」「ポトポト」「ホトホト」などを合成して造語にし
「ヌメラン」は「ヌメヌメ」に「ランラン」を合せた新造語。

第4連には
辞書を必要とする単語・熟語や語句はありません。

「自《み》ら」は、大正・昭和初期の独特な表記で
「自(おの)ずと」と読む場合と区別するために
「みずから」と読む場合に「み」というルビ1字を振り
「おのずと」と読む場合には「お」の1字を振る習慣があって
中原中也もそのルールに準じただけのことです。
詩を音読する場面で注意すればよい話になります。

その3

トタンがセンベイ食べて、とはなんだ?!
アンダースローされた灰が蒼ざめて、とはなんだ?!

――「春の日の夕暮」ならば
のっけから、この奇妙な言い回しに驚いて退散してしまう人もあれば
なんだ、なんなのだ、と疑問を抱きながらも
面白そうだとこころをときめかし
全行を読み通す人もあることでしょう。

ここで引っかかりを覚えるであろう難解な語句を整理してみると
単語としては漢字にやや見慣れないものとして

蒼(あお)ざめて
吁(ああ)
案山子(かかし)
嘶(いなな)く
伽藍(がらん)
嘲(あざけ)る
瓦(かわら)

――などを挙げることができるでしょうか。
もちろんこれらは個人差があるものです。

このうち、「ああ」「かかし」「いななく」「あざける」にはルビがありますから
読めないものがあるとすれば
「蒼(あお)ざめて」「伽藍(がらん)」「瓦(かわら)」などに絞られそうです。

もしもこれら「蒼」「伽藍」「瓦」の漢字が読めなければ
漢和辞典で読み方を調べればよいのです。

漢字以外の耳慣れない語句としては

トタンがセンベイ食べて
アンダースローされた灰が蒼ざめて
月の光のヌメランとするまゝに
ポトホトと野の中に伽藍は紅く
私が歴史的現在に物を云へば

――などでしょうか。

 

これらの語句を
どのように読んだらよいのか。
詩を読むことにむずかしさがあるとすれば
ここに最大の山の一つが聳(そび)えています。

その4

「春の日の夕暮」に使われている言葉を
まず単語(主として漢字)や語句などの部品を理解することからはじめ
部品(部分)の意味がだいたい分かったら
文や構成やつくりなどの全体へと目を向けていくのが自然の流れでしょうが
はて、

トタンがセンベイ食べて
アンダースローされた灰が蒼ざめて
月の光のヌメランとするまゝに
ポトホトと野の中に伽藍は紅く
私が歴史的現在に物を云へば

――といったフレーズ(語句)と詩全体は
複雑に絡み合っていて生きていますから
数式を解くように理解することは困難です。
このこと一つとっても詩の理解の仕方は
詩を読む人の数だけ存在するということになります。

中でも
「トタンがセンベイ食べて」という副詞句の解釈については
千差万別(せんさばんべつ)、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のにぎわいで
みんながみんな勝手な読みを繰り広げてきた歴史があります。

この1行のインパクトは
詩全体の読みを超える力があって
詩を丁寧に丁寧に1行1行読んで
詩を全体として(=作品として)読んだとしても
脳裡にこびりついて離れないほどの経験になってしまうのです。

これが詩の第1行にドカンとあるのです。
第2行
春の日の夕暮は穏かです
――にかかる、単なる副詞句なのに
主格級のパワーをこの1行は持ち続けるのですが
よくは分からないまま

アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです
――へと進んでいるときには
すでに迷子の状態になっているにもかかわらず
後戻りもしないのが普通のことでしょう。

 

見方を変えれば
こうして人はいつのまにか
詩の世界に入り込んでいるのです。

その5

「春の日の夕暮」の中でこのようにして
難しそうな語句のうち辞書を引けば分かりそうなのをさらって
全行をひと通り読めば
この詩が春のある日の日没の風景を歌っていることを理解しますが
特別にむずかしい漢字が使われているわけでもないのに
奇妙だ、可笑しい、何をいっているんだろうなどと
冒頭の「トタンがセンベイ食べて」にパンチを食らって
フラフラしたまま次に進みます。

ある春の夕方のリアルな日没のはずが
「トタンがセンベイ食べて」という
作り物めいた言い回しによって
読者はショックを受けたのに続けて
「アンダースローされた灰が蒼ざめて」で追い討ちされます。
とはいえ、この2行は対句をなしていて
どちらも春の日の夕暮の形容(修飾)であることをなんとか理解します。

マジックにかかったように入り込んだ第1連が
詩全体からみて起承転結の起とすれば
第2連は承、
第3連は転、
第4連が結ということになりそう、などと構成も見えはじめます。

第2連では
穏やかで静かな春の日の夕暮れを歌うのならば
案山子があるだろうし馬のいななきがあるはずなのに
そんなものないだろ、と詩(詩人)は
あらかじめ穏かでも静かでもない春の日の夕暮れを準備するのです。

2連から3連へ進む中に
「ヌメランと」や「ポトホトと」などの聞きなれないオノマトペ(擬態語・擬音語)が現われるのも
春の日の夕暮という風景の一側面として読めるようになりますが
第3連に突如、「私」が「歴史的現在」にものを言うとあるのに出くわして
詩が動き出すのを感じます。
転です。

ここにきて
春の日の夕暮に対して
もう一つの主格(主役)である(私=詩人)が登場するのですから
どうやらこの詩が風景ばかりをうたったものではないことに気づかされるのです。

 

転は急を告げる感覚を催させ
一気に結(=終)へと収束していきます。
春の日の夕暮が「静脈管の中へ」前進していくのです。

その6

この詩は、春の日の夕暮が
自らの(自分の)静脈管の中へ前進していく、ということを歌ったものかと
分かったような気持ちになってきますが
この「自らの」とは誰の(何の)自らのこと?
春の日の夕暮自らの静脈管なのか?
それとも、私自らの静脈管の中へなのか?
――などと、ふとした疑問が湧きはじめます。

それで冒頭の行へ戻って
また詩全体の中で
「自ら」の謎を読み解こうという姿勢になると
トタンって何?
センベイって何?
アンダースローされた灰って何?

太陽が沈みつつある西の反対側の東の空には月がヌメランとしているのか?
つまり、菜の花や月は東に日は西に(与謝蕪村)――なのか?
第2連の春の夕暮れかの「か」という疑問助詞は何なのか?

「野の中に伽藍は紅く」とは広い野原が赤く染まっていて
「がらんどう」状態になっている、あるいは、ガランとしているということか?

空と山が嘲るというのは、どのように嘲るのか?
風が吹いたり雨が降ったりすることか?
それとも、擬人法とかメタファーなのだから、
「私=詩人」が人間の誰かに言葉で何らか嘲られ馬鹿にされたという事実があるのか?

瓦がはぐれるのは、なぜ瓦がはがれるではいけないのか?
――次々に疑問が湧いてきます。

謎を一つ一つ解いていけば
詩は解釈できるでしょうか?

1字1字、1語1語、1行1行、1連1連……
逐字的に、逐条的に意味を追い……
語学的にアプローチし文法的にアプローチしただけではつかめない
謎にぶちあたってしまいます。

いったい、詩人はどこにいるのだろう。

次々に生じる疑問に途方に暮れている最中に
この問いが出て来たとき
もしかすれば
この問いに答えればこの詩の謎は解けるかもしれない、というひらめきに巡り合います。

 

いったい、詩人は春の日の夕暮をどこで見ているのだろう?

その7

「春の日の夕暮」の風景の中に詩人は存在するだろうか――。

詩の中にその作者が存在するかどうか、
目に見える形で詩人が作品の中に登場する場合もあれば
登場しない作品だってありますから
「春の日の夕暮」の中に詩人・中原中也が現われるかどうか
現われなくて詩の外にいるという場合を除いて
作者詩人は詩の中のどこかにいる場合が多いはずですから
この詩の中のどこに詩人がいるのかを探します。

そうするとやはり
春の日の夕暮という風景を見ていることは確かなことが分かります。
どこかで、見ている。
タイトルの「春の日の夕暮」のほかに
第1連、第2連、第4連と
第3連以外に「春の日の夕暮」という語句が使われているのも
これが主題(テーマ)であることは明らかです。
これは揺らぎようにない確かなこと。

その風景の中にあって
沈んでいく太陽は
すでに山陰に隠れはじめたか
完全に隠れてしまえば暗くなって夕暮とは言わないでしょうから
陽があたり一面に反射している状態で
いっぽうに月がヌメランとしているのも見える場所。
詩人がじっとしているのなら
こういう場所があり
そこから「トタンがセンベイ食べ」「アンダースローされた灰が蒼ざめて」いるのが見えます。
第1連、2連の詩人は
動かないでこの風景を見ているということは確実なようです。

第3連でも第4連でも
この場所から離れず
じっと春の日の夕暮れの風景を眺めているのかもしれません。

同じ場所から、野の中に伽藍が紅く染まっている光景が見え
ガタガタと荷馬車が車輪をきしませて進んでいく景色が見えますが
この時に、私がものを言うのか
近い過去に私がものを言ったのか
歴史的現在に物を云った私は
今、ここに存在する私なのか、はっきりしません。
したがって、空と山がどのように嘲るのかもはっきりしません。
どうも、ここは詩人の脳裡に去来した近い過去の回想のようです。

 

そして最終連の
瓦が一枚はぐれるシーンをも詩人は目撃します。
ここにも詩人はいつづけ
さっきからずっとじっとして
春の日の夕暮の風景を見ていた、と言えそうですが
「はがれた」ではなく「はぐれた」としたのは
風景がそのまま詩人の心の動きと重なったからです。
空と山に嘲られた過去のことがよみがえり
はぐれた感覚を思い出した詩人の心象が
目前にしている風景にオーバーラップしたのです。

その8

詩人は春の日の夕暮の中にいて
一つ所でじっとそれを見ているか
もしくは、その中を少しは歩きはじめたかもしれない。

そのような「絵」が
「春の日の夕暮」という詩から見えます。

とすると
詩人は、そのような風景の中にあって
その風景を描いている、と考えてよいのでしょうか?

この詩は春の日のある日の夕暮れの描写なのでしょうか?
自然の風景の記録なのでしょうか?
リアリズムの詩なのでしょうか?
叙景詩なのでしょうか?

もちろん、どれでもありません。
どれでもないのですが
風景を描くことからはじまり
風景以外のものを歌うところに特徴がある詩の一つなのです。

叙景にはじまりいつのまにか叙情に転じる詩。
叙景からはじまり叙情でなく思想を展開する詩。
叙景からはじまりいつしかメッセージを伝える詩。
叙景にはじまり叙景でなくなる詩。

これに似た作りの詩が
中原中也の詩にたくさんあります。

すぐに思いつくだけでも、

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、(一つのメルヘン)

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。(月夜の浜辺)

長門峡に、水は流れてありにけり。(冬の長門峡)

――などが「在りし日の歌」から浮かんできます。

「山羊の歌」を開いてみても、

天井に朱きいろいで(朝の歌)
月は空にメダルのやうに(都会の夏の夜)
渋つた仄暗い池の面で(黄昏)
柱も庭も乾いてゐる(帰郷)
青い空は動かない(夏の日の歌)
石崖に、朝陽が射して(港市の秋)
黝い石に夏の日が照りつけ(少年時)

 

――などと実に多くの詩が叙景ではじまっていることに気づき驚くほどです。

その9

詩が風景を歌っているのであれば
風景を歌う詩人の位置は特定できるのが普通ですから
「春の日の夕暮」の視点もおよその見当はつきました。

ダダイズムの詩やシュルレアリズムの詩や
パブロ・ピカソの絵などのように
「多数の視点」があり混沌とした世界がありますが
この「春の日の夕暮」はダダイズムの詩といわれながらも
3次元の一定の視点で読める
比較的に規則正しい世界すなわち遠近法の世界であることがわかったのです。

4行4連の構成も
定型志向であることを示しています。

そうであれば、詩の何行かが
とりとめがないような
わけのわからないような
非論理的であるようなものに感じられる詩の世界であっても
詩の世界の核心へより近づいていることに違いはなく
遠ざかってはいないことは確実です。

詩が全体としてもつ意味を捕まえたようなものですから
次には細部(ディテール)を味わうだけでよいというところにたどり着きました。

味わうというのは
研究や論文を書こうとしているということではなく
一つの詩(の1行1句)がおいしいかまずいか
個人個人の五感や好みにまかせて
自由に楽しめばよいという領域のことです。

旨いかまずいか
それを感じるのは
自分自身ですから
他人(ひと)が口をはさむ余地はありません。

 

このようにして、
「春の日の夕暮」のような謎だらけの詩も
色々な読みが試みられてきましたし
味わわれ方も百人百様でしたのは自然の流れです。

その10

それにしても
トタンがセンベイ食べて、という冒頭行のインパクトが強い詩ですね。

4行×4連=16行のうちで
やはり、この1行がこの詩を決めている! と読むのも自由です。

ぼくは、ヌメランとポトホトに参りました! という声もきこえますし

静脈管の中へ前進する夕焼け――この結末がいいですね、なんて言う声もあります。

先に、叙景が叙情に変化する詩であることを考えましたが
この詩の前半が叙景
後半が叙情という流れになっていて
後半の第3連は「転」の位置にあることがわかると
さらに詳しく見れば、

ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ

――までが叙景

私が歴史的現在に物を云へば
嘲(あざけ)る嘲る 空と山とが

――は叙情ととらえることも難しくないことでしょうか。

最終連第1行も
瓦が一枚はぐれました
――が叙景で、以後は叙情と
きっかり切り分けることができますが
このような分析はほどほどにしておいたほうが
詩の味わいをキープできるかもしれません。

いずれにしても
第3連の「転回」がこの詩の肝みたいなところです。

4段階の起承転結は
3段階にすると「序破急」に相当し
第3連は「破」、第4連は「急」です。
詩の山であり結末であり
ここは肝です。

ここを」どう考えるか?
ここをどう感じるか?
ここをどう味わうか?

 

トタンがセンベイ食べてからはじまった詩の大団円です。

その11

ところで
春の日の夕暮に
詩(詩人)は何を見たのでしょう――。

叙景、叙景といってきましたが
春の日の夕暮は、単に春の日の夕暮にすぎないのではなく
自然としての落日以外のもののはずです。
それはなんなのでしょう。

そこで、メタファーとか象徴とか
この詩に仕掛けられた技ということが問題になってきます。

瓦が一枚はぐれました、という行が不思議です。
この行だけが過去形であることとも
微妙に関係してくるようなのですが
この瓦も詩人の眼前にある屋根瓦(ヤネガワラ)だけではなさそうです。

穏やかで静かな夕暮だったはずが
瓦をはがすような風が吹いたのでしょうか?

この瓦もリアルな屋根瓦であるよりも
なんらかの比喩か象徴かのはずなのです。
景色としての瓦ではなく
こころの景色としての瓦だから
はぐれたのです、はがれたのではなく。

第3連の最終行も
空と山が現実では嘲るわけがないのに嘲るのですから
嘲られた「私」(=詩人)の心中は穏やかでないわけがありません。
にもかかわらず
空と山とが嘲る嘲ると平然としているようですが
内心はどうだったか。
煮えくり返っていたのかもしれません。

空と山とが嘲るというここで
すでに景色は自然の景色ではなくなっていて
それを受けて
瓦も人のようにはぐれたのです。

はぐれたという過去形で強調されてすぐに
「これから」と時間が動きます。
ドラマが起こるかのように
詩はエンディングとなります。

こうして叙景がいつのまにか叙情に転じて
この詩は終ります。

では、春の日の夕暮が前進していく場所である静脈管とは何でしょう?

 

詩人は
汚れた血が静脈管へ入ったあと
体内の再生システムを通じて浄化されるイメージを描いていたことが想像されますが
もっとほかのことを言いたかったのかも知れません。

その12

「春の日の夕暮」が前進して
自らの静脈管の中へ入っていったというのは
血となり肉となったというようなことなのでしょう。

この詩ははじめ「春の夕暮」として
1924年ごろに作られました。
次のように、少しだけ異なる言葉使いになっていたのを
「山羊の歌」に収録するときに改めたものです。

春の夕暮
 
塗板(トタン)がセンベイ食べて
春の日の夕暮は静かです

アンダースロウされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は穏(おだや)かです

ああ、案山子はなきか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
ただただ青色の月の光のノメランとするままに
従順なのは春の日の夕暮か

ポトホトと臘涙(ろうるい)に野の中の伽藍(がらん)は赤く
荷馬車の車、 油を失い
私が歴史的現在に物を言えば
嘲(あざけ)る嘲る空と山とが

瓦が一枚はぐれました
春の日の夕暮はこれから無言ながら
前進します
自(みずか)らの静脈管の中へです

京都時代の作品でした。
後にその京都を歌った作品「ゆきてかえらぬ」は
「春の日の夕暮」を読むときの参考になるかもしれません。
全行を掲出しておきます。

ゆきてかえらぬ
      ――京 都――
  
 僕は此(こ)の世の果てにいた。陽(ひ)は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺っていた。

 木橋の、埃(ほこ)りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々(あかあか)と、風車を付けた乳母車(うばぐるま)、いつも街上(がいじょう)に停っていた。

 棲む人達は子供等(こどもら)は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

 さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜(みつ)があり、物体ではないその蜜は、常住(じょうじゅう)食(しょく)すに適していた。

 煙草(たばこ)くらいは喫(す)ってもみたが、それとて匂(にお)いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外(そと)でしか吹かさなかった。

 さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団(ふとん)ときたらば影(かげ)だになく、歯刷子(はぶらし)くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方(めかた)、たのしむだけのものだった。

 女たちは、げに慕(した)わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山(たくさん)だった。

 名状(めいじょう)しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。
        *           *
              *
 林の中には、世にも不思議な公園があって、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いていた。

京都で「春の夕暮」をつくったダダイスト中原中也が
上京して4、5年ほどして作った「盲目の秋」や
晩年の名作「言葉なき歌」にも
夕陽が現われます。

「盲目の秋」のⅠに
私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

「言葉なき歌」には
それにしてもあれはとおいい彼方(かなた)で夕陽にけぶっていた
号笛(フィトル)の音(ね)のように太くて繊弱(せんじゃく)だった

しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

――といったように。

これらの夕陽の風景が連続していることを証明するものはありませんが
まったく関連のないことでもないのなら
静脈管の中へ前進して血となり肉となった
春の夕暮の風景の「その後」を見ることができるということになります。

 

※引用した詩はすべて、新字・新かな表記にしてあります。編者。


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