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中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)7「早大ノート」ほか

中原中也の未発表詩篇に現われる「花や草」(植物)を
ピックアップしていきます。
 
「早大ノート(1930年―1937年)」には42篇
「草稿詩篇(1931年―1932年)」には13篇
「ノート翻訳詩(1933年)」には9篇の詩があります。
 
 
<早大ノート(1930年―1937年)>
 
「干 物」
外苑の舗道しろじろ、うちつづき、
千駄ヶ谷、森の梢のちろちろと
 
「いちじくの葉」
いちじくの、葉が夕空にくろぐろと、
 
夕空に、くろぐろはためく
いちじくの、木末(こずえ) みあげて、
 
「Qu'est-ce que c'est que moi?」
 
私のなかで舞ってるものは、
こおろぎでもない、
秋の夜でもない。
南洋の夜風でもない、
椰子樹(やしのき)でもない。
それの葉に吹く風でもない
それの梢(こずえ)と、すれすれにゆく雲でない月光でもない。
つまり、その……
サムシング。
だが、なァんだその、サムシングかとは、
決して云ってはもらいますまい。
※全文を掲載しました。サムシングは説明できないものですが、説明を試みると「○○ではない、
○○でもない……」と列挙すれば「否定の否定」で明らかになってくるかというとそうでもない。「何
か」というしかないものなのです。その例の幾つかに「植物」が現われています。「何か」に限りなく
近いものの一つに植物があるのですが、でもそうじゃないという例にあがる植物です。
 
「さまざまな人」
打返した綿のようになごやかな男、
ミレーの絵をみて、涎(よだれ)を垂らしていました。
 
(吹く風を心の友と)
私がげんげ田を歩いていた十五の春は
煙のように、野羊(やぎ)のように、パルプのように、
 
とんで行って、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いているであろうか
耳を澄ますと
げんげの色のようにはじらいながら遠くに聞こえる
 
(月はおぼろにかすむ夜に)
月はおぼろにかすむ夜に、
杉は、梢(こずえ)を 伸べていた。
※全文です。未完成の詩です。2行しか作られていませんが、ポエジーがないとはいえないから、
詩として収録されたのでしょうか。詩を作ろうとして中途で終わったものの書き出しに植物(杉)が
現われるだけで、この詩の行方を想像してみたくなります。
 
(疲れやつれた美しい顔よ)
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋でみる、三色菫(さんしきすみれ)だ
 
「秋の日曜」
青い空は金色に澄み、
そこから茸(きのこ)の薫(かお)りは生れ、
 
(汽笛が鳴ったので)
樹々は野に立っている、
従順な娘達ともみられないことはない。
 
(七銭でバットを買って)
小さな月が出ているにはいたが、
それでも木の繁った所は暗かった。
 
(月の光は音もなし)
月の光は音もなし、
虫の鳴いてる草の上
 
虫は草にて鳴きまする。
 
 
42篇中11篇に「花・草」がありました。
2割5分強です。
 
 
<草稿詩篇(1931年―1932年)>
 
「疲れやつれた美しい顔」
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫(さんしきすみれ)だ。
 
「青木三造」
ゆらりゆらりとゆらゆれる
海のふかみの海草(うみくさ)の
おぼれおぼれて、溺れたる
 
「材 木」
 
立っているのは、材木ですじゃろ、
    野中の、野中の、製材所の脇。
※「加工された植物」ですが、数に入れました。
 
「脱毛の秋 Etudes」
私は歩いていた、私の膝は櫟材(くぬぎざい)だった。
 
それは枇杷(びわ)の葉の毒に似ていた。
 
縁台の上に筵(むしろ)を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
 
「幻 想」
歯槽膿漏(しそうのうろう)たのもしや、
 女はみんな瓜(うり)だなも。
瓜は腐りが早かろう、
そんなものならわしゃ嫌い、
歯槽膿漏さながらに
 
雨降れ、
瓜の肌には冷たかろ。
 
「秋になる朝」
ほのしらむ、稲穂にとんぼとびかよい
 
恋人よ、あの頃の朝の涼風は、
とうもろこしの葉やおまえの指股に浮かぶ汗の匂いがする
 
「蒼ざめし我の心に」
それら今日、いかにかなりし……
森の木末(こずえ)の、風そよぐのみにして
 
ああ、忘れよや、わが心、廃墟の木魂……
忘れよや、森の響きを、
 
(辛いこった辛いこった!)
辛いこった辛いこった!
なまなか伝説的存在にされて
ああ、この言語玩弄(がんろう)者達の世に、
なまなか伝説的存在にされて、
(パンを奪われ花は与えられ)
ああ、小児病者の横行の世に!
 
奴等(やつら)の頭は言葉でガラガラになり、
奴等の心は根も葉もないのだ。
野望の上に造花は咲いて
迷った人心は造花に凭(すが)る。
造花作りは花屋を恨む、
さて、花は造花程口がきけない。
 
造花作りの羽振(はぶり)のよさは、
ああ、滑稽(こっけい)なこった滑稽なこった。
それが滑稽だとみえないばかりに、
花の言葉はみなしゃらくさい。
舌もつれようともつれまいと
花に嘘(うそ)などつけはしないんだ。
※全文掲載しました。「パンと花」が決定的な要素になっている詩です。「花」と「造花」を比べて、
「詩人」の位置が述べられています。
 
 
13篇中8篇です。
6割強です。
 
<ノート翻訳詩(1933年)>
 
(僕の夢は破れて、其処に血を流した)
声はほのぼのと芒(すすき)の穂にまつわりついた。
 
(土を見るがいい)
土を見るがいい、
土は水を含んで黒く
のっかってる石ころだけは夜目にも白く、
風は吹き、頸(くび)に寒く
風は吹き、雨雲を呼び、
にじられた草にはつらく、
風は吹き、樹の葉をそよぎ
風は吹き、黒々と吹き
葱(ねぎ)はすっぽりと立っている
その葱を吹き、
その葱の揺れ方は赤ン坊の脛(はぎ)ににている。
※モチーフは「土」ですが、主役は「植物」といってよいかもしれません。なので全文を載せました。
 
「Qu'est-ce que c'est?」
僕がこうして何時(いつ)まで立っていることも、
黒々と森が彼方(かなた)にあることも、
※「サムシング」とあった「Qu'est-ce que c'est que moi?」と同じ系列の詩です。詩人は詩人論をし
ばしば詩で展開し、詩とは何かというテーマに迫ります。やがては「言葉なき歌」「蛙声」などの詩
人論・詩論へ繋(つな)がっていきます。
 
「孟夏谿行」
この水は、いずれに行くや夏の日の、
山は繁(しげ)れり、しずもりかえる
 
山竝(やまなみ)は、しだいにあまた、移りゆく
展望のたびにあらたなるかも
 
 
9篇中4篇でした。
 
 

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