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きらきら「初期詩篇」の世界/7「帰郷」

その1

「帰郷」が
「山羊の歌」の「初期詩篇」で「冬の雨の夜」の次に配置されたのは
制作年次によるものではなく
「父」「母」を歌った流れからのものであることが
くっきりと見えてきました。

「冬の雨の夜」と異なるのは
遠くにいて故郷を思うのではなく
生まれ育った土地へ実際に帰郷して歌った詩であることです。

帰 郷
 
柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ
    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
    心細そうに揺れている

山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
    路傍(みちばた)の草影が
    あどけない愁(かなし)みをする

これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする

ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

有名な詩です。
「朝の歌」や「臨終」などとともに
音楽集団「スルヤ」によって演奏されたことでもよく知られています。

「帰郷」は
「スルヤ」のメンバー内海誓一郎が
作曲した詩の一つです。

内海は「白痴群」の同人でもありました。

冒頭の2行

柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ
――のなんともいえない「ゆるさ」というか「肩の力のなさ」というか
これはしゃべり言葉というよりも「散文」ではないかと思わせる
変哲のない滑り出し。

にもかかわらず
あふれる詩情。

それはどこから生れているのでしょうか?

久々に帰った「わが家」および周辺を一回りして1日を終え
その日のうちに
この詩は作られた――。
そのような新鮮さがあります。

まず、「柱と庭」という近景を歌い
しばらくして「縁の下」を歌い
そして「山の枯れ木」を歌い「路傍」を歌い
またしばらくして「年増婦の声」を歌い「風」を歌ったのです。

詩人の歩みがありありと見える
ゆるやかな時の移ろいがあります。

第1連後半行の
    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
    心細そうに揺れている
――は、幼き日にもぐりこんで遊んだ「縁の下」でありましょう。

その場所は
遊びほうけた少年が
遊びの合間にふとまぎれこむ静かで秘密めいた空間でした。

そこがどうなっているか
詩人はそれとはなしに
探す眼差しになったのでしょう。

そこに「蜘蛛の巣」はあり
昔遊んだときに顔にひっかかったそれはあり
「心細そうに」揺れていました。

その2

今日は好い天気だ
――という「月並みな」日本語が
どのようにして「詩の言葉」になるのか。

「帰郷」からは
詩の発生の現場を見るような
詩語・詩行の流れを味わうことができます。

まずは、
ああ今日は好い天気だ
――と「今日は好い天気だ」が繰り返されますが
第1連と第2連は
「ああ」という感嘆詞の有無によって
異なるニュアンスを放っていることに気づくでしょう。

次に、
各連は前半が風景描写であり
後半の「字下げ」された行には
詩人の心境が歌われていることに気づくでしょう。

次に、
最終連の2行で
故郷を一回りしてきた詩人に積み重なってきた思いのすべてが
吐き出されるのを知るでしょう。

「心細そうに揺れている」にはじまる
故郷散策の思いの一つ一つは
詩人の中で次第に膨(ふく)らんで
ついに最終連で堰を切ります。
溢れます。

各連前半行は
故里(ふるさと)が
変わらない相貌(かお)で詩人を迎えるのを歌います。

これが私の故里だ
――と詩人に断言させるに十分なたたずまいで。

 

その3

「帰郷」第1連から第3連までの各連の後半行は
「字下げ」することによって
詩人の心境が吐露(とろ)されていることを示します。

蜘蛛の巣が心細そうに揺れるのを目撃し
路傍の草影は愁しみを漂わせていると感じ
年増婦の「たっぷり泣きなさい」と語るのを聞くのは詩人(の心)です。

帰 郷
 
柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ
    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
    心細そうに揺れている

山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
    路傍(みちばた)の草影が
    あどけない愁(かなし)みをする

これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする

ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

なぜ、蜘蛛の巣が揺れるのが心細そうに見えたのでしょう
なぜ、路傍の草影は愁しみを漂わせていると感じ
なぜ、年増婦の「たっぷり泣きなさい」と語るのを聞いたのでしょう。

これらの一つ一つが
「私の故里」だからでしょう。

であるのに、
これらの風景に触れた詩人に聞こえてくるのは
ああ おまえはなにをして来たのだと……
――という風、いや自らの声でした。

まだ何もしていないじゃないか。

詩人は、では
まだ詩人としての業績を残していない自分を恥じ
自分を責めているのでしょうか?

そういうことは
もちろん言えることではありますが……。

由緒ある先祖を持つ中原家の長男であるにもかかわらず
家督を継ぐことを放棄して家郷を去った詩人の卵が
いまだれっきとした名をあげず
錦を飾れないまま帰郷した――。

だから
ああ おまえはなにをして来たのだと……
――と自責の念に駆られて歌った。

そのような心境になかったとは言えませんが
この詩が歌っているのは
それとは少し異なる心境であることは
ああ おまえはなにをして来たのだと……
――という声が詩人自ら発したというほかに考えられないところに
表われていそうです。

詩人以外のだれが言ったものではなく
詩人自らがそう言った声として
この最終行を読むとき
もう少し違う思いが見えます。

まだなにもしていない
ぼくの詩人としての活動ははじまったばかりだ

幼き日に遊んだときに見た縁の下のあの蜘蛛の巣は
あの時のままでああして巣をめぐらしているけれど……

山の道に茂っていた草々が
翳りを帯びて悲しそうだったのも昔と変わらないけれど……

思う存分泣きなさいと「おばば」は言うけれど……

昔のようにそうしてばかりもいられないのだよ
ぼくにはまだやらねばならないことがたくさんある

第3連と最終連との間に
無限に近い時間が流れています。

遠い日は
いまそこにあるようだけれど
もはやないのです。

いちだんと「風の声」が大きくなる中で
詩人は歯を食いしばって立っています。

 

詩人に帰るところは
「詩」の中にしかないからです。

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