きらきら「初期詩篇」の世界/7「帰郷」
その1
「帰郷」が
「山羊の歌」の「初期詩篇」で「冬の雨の夜」の次に配置されたのは
制作年次によるものではなく
「父」「母」を歌った流れからのものであることが
くっきりと見えてきました。
「冬の雨の夜」と異なるのは
遠くにいて故郷を思うのではなく
生まれ育った土地へ実際に帰郷して歌った詩であることです。
◇
帰 郷
柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ
椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
心置なく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
有名な詩です。
「朝の歌」や「臨終」などとともに
音楽集団「スルヤ」によって演奏されたことでもよく知られています。
「帰郷」は
「スルヤ」のメンバー内海誓一郎が
作曲した詩の一つです。
内海は「白痴群」の同人でもありました。
◇
冒頭の2行
柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ
――のなんともいえない「ゆるさ」というか「肩の力のなさ」というか
これはしゃべり言葉というよりも「散文」ではないかと思わせる
変哲のない滑り出し。
にもかかわらず
あふれる詩情。
それはどこから生れているのでしょうか?
◇
久々に帰った「わが家」および周辺を一回りして1日を終え
その日のうちに
この詩は作られた――。
そのような新鮮さがあります。
まず、「柱と庭」という近景を歌い
しばらくして「縁の下」を歌い
そして「山の枯れ木」を歌い「路傍」を歌い
またしばらくして「年増婦の声」を歌い「風」を歌ったのです。
詩人の歩みがありありと見える
ゆるやかな時の移ろいがあります。
◇
第1連後半行の
椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
心細そうに揺れている
――は、幼き日にもぐりこんで遊んだ「縁の下」でありましょう。
その場所は
遊びほうけた少年が
遊びの合間にふとまぎれこむ静かで秘密めいた空間でした。
そこがどうなっているか
詩人はそれとはなしに
探す眼差しになったのでしょう。
そこに「蜘蛛の巣」はあり
昔遊んだときに顔にひっかかったそれはあり
「心細そうに」揺れていました。
◇
その2
今日は好い天気だ
――という「月並みな」日本語が
どのようにして「詩の言葉」になるのか。
「帰郷」からは
詩の発生の現場を見るような
詩語・詩行の流れを味わうことができます。
◇
まずは、
ああ今日は好い天気だ
――と「今日は好い天気だ」が繰り返されますが
第1連と第2連は
「ああ」という感嘆詞の有無によって
異なるニュアンスを放っていることに気づくでしょう。
◇
次に、
各連は前半が風景描写であり
後半の「字下げ」された行には
詩人の心境が歌われていることに気づくでしょう。
次に、
最終連の2行で
故郷を一回りしてきた詩人に積み重なってきた思いのすべてが
吐き出されるのを知るでしょう。
「心細そうに揺れている」にはじまる
故郷散策の思いの一つ一つは
詩人の中で次第に膨(ふく)らんで
ついに最終連で堰を切ります。
溢れます。
◇
各連前半行は
故里(ふるさと)が
変わらない相貌(かお)で詩人を迎えるのを歌います。
これが私の故里だ
――と詩人に断言させるに十分なたたずまいで。
◇
その3
「帰郷」第1連から第3連までの各連の後半行は
「字下げ」することによって
詩人の心境が吐露(とろ)されていることを示します。
蜘蛛の巣が心細そうに揺れるのを目撃し
路傍の草影は愁しみを漂わせていると感じ
年増婦の「たっぷり泣きなさい」と語るのを聞くのは詩人(の心)です。
◇
帰 郷
柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ
椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
心置なく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
なぜ、蜘蛛の巣が揺れるのが心細そうに見えたのでしょう
なぜ、路傍の草影は愁しみを漂わせていると感じ
なぜ、年増婦の「たっぷり泣きなさい」と語るのを聞いたのでしょう。
これらの一つ一つが
「私の故里」だからでしょう。
◇
であるのに、
これらの風景に触れた詩人に聞こえてくるのは
ああ おまえはなにをして来たのだと……
――という風、いや自らの声でした。
◇
まだ何もしていないじゃないか。
詩人は、では
まだ詩人としての業績を残していない自分を恥じ
自分を責めているのでしょうか?
そういうことは
もちろん言えることではありますが……。
◇
由緒ある先祖を持つ中原家の長男であるにもかかわらず
家督を継ぐことを放棄して家郷を去った詩人の卵が
いまだれっきとした名をあげず
錦を飾れないまま帰郷した――。
だから
ああ おまえはなにをして来たのだと……
――と自責の念に駆られて歌った。
そのような心境になかったとは言えませんが
この詩が歌っているのは
それとは少し異なる心境であることは
ああ おまえはなにをして来たのだと……
――という声が詩人自ら発したというほかに考えられないところに
表われていそうです。
詩人以外のだれが言ったものではなく
詩人自らがそう言った声として
この最終行を読むとき
もう少し違う思いが見えます。
◇
まだなにもしていない
ぼくの詩人としての活動ははじまったばかりだ
幼き日に遊んだときに見た縁の下のあの蜘蛛の巣は
あの時のままでああして巣をめぐらしているけれど……
山の道に茂っていた草々が
翳りを帯びて悲しそうだったのも昔と変わらないけれど……
思う存分泣きなさいと「おばば」は言うけれど……
昔のようにそうしてばかりもいられないのだよ
ぼくにはまだやらねばならないことがたくさんある
◇
第3連と最終連との間に
無限に近い時間が流れています。
遠い日は
いまそこにあるようだけれど
もはやないのです。
いちだんと「風の声」が大きくなる中で
詩人は歯を食いしばって立っています。
詩人に帰るところは
「詩」の中にしかないからです。
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