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ギロギロする目が見た/「少年時」

(前項「きらきら「初期詩篇」の世界/12「宿酔」」からつづく)

 
その1
 
「朝の歌」が小林秀雄に好感をもたれたのをはじめ
周辺を越えてもじわじわと評価されていき
中原中也は詩人として立つ決意を新たにします。
 
方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数がかかるのではとガッカリす。
――と「詩的履歴書」に書いたのはこのあたりのことなのですが
「ガッカリす」は
詩作が手間ひまかかるのに「割りに合わない」とでも言いたげで
そちらのほうに重心がかかっていて
詩作の大変さとともに
生計を立てる困難さが告白されているものと理解されても仕方がありません。
 
そう受け取るのは自然で
上京してから「朝の歌」を作るまでに
詩人が費やした苦闘のあしどりは
半端なものではありませんでした。 
 
それが少しは報われる思いをしたのに
ガッカリだったと記録したのですが
この記述にはどこかはぐらかされた感じがしてしまいます。
 
それはなぜでしょうか?
 
 
その答えを見出すのは
簡単なことではありませんが
「宿酔」が「朝の歌」と同じ場面を歌いながらも
口語会話体をあえて駆使したり
「初期詩篇」の締めくくりに新作されたりという意図の中に
明白に表れていることです。
 
「朝の歌」以後に配置された「初期詩篇」の幾つかにも
その答えを見出すことはできることでしょう。
 
 
そして「山羊の歌」第2章「少年時」は
そのことをさらに強力な証として読むことができる詩群です。
 
そこには「朝の歌」の境地から
遥か遠い地平が開けています。
 
 
少年時
 
黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。
 
地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。
 
麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。
 
翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
 
夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……
 
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
 
その2
 
「少年時」は
「山羊の歌」の第2章にあたる「章」の題であると同時に
第2章の冒頭詩です。
 
「山羊の歌」は
「少年時」以下の章は
すべて章題と同じタイトルの詩をその章の冒頭詩とするつくりになっています。
 
第3章にあたる「みちこ」
第4章にあたる「秋」
第5章にあたる「羊の歌」
――のそれぞれの章の冒頭詩が章題と同じタイトルの詩になっているのです。
 
 
「初期詩篇」22篇
「少年時」9篇
「みちこ」5篇
「秋」5篇
「羊の歌」3篇
――という構成を見ても
合計44篇の詩を「初期詩篇」で半分
「初期詩篇」以外で半分ときっかり2分しているのは
いわば「歌った詩(=叙情)の配分」へのこだわりです。
 
それまで歌った詩への
過不足のない愛着の表明です。
 
「数的構成」へのこだわりは
詩集そのものへのこだわりです。
 
こんなところにも
中也の「山羊の歌」への情熱のかけらがあります。
 
 
「黝(あおぐろ)い石」は
庭石のことでしょうか
それとも河原や野の道の石のことでしょうか。
 
かつての少年は生地の自然の「原風景」を
思い切りよく詩の言葉にします。
 
 
「少年時」は
上京後の「鬱積(うっせき)」をあるいは「蓄積」を
一気に吐き出すかのような激しさを歌いはじめます。
 
それは京都で歌った「春の日の夕暮」にも
上京後、ようやく他者から認められた「朝の歌」にもない
原初の激しさです。
 
それは
かつて詩人の中にあったものでした。
 
それは
少年がこの世の中に「宝島」を見つけたときの興奮でした。
 
その3
 
「少年時」の初稿は
昭和2年、3年ごろの制作と推定されています。
 
それが「山羊の歌」の編集時(昭和7年)に推敲されました。
(第1次形態)
 
中也の昭和2年の日記には
ランボーへの言及がしばしば見られたり
昭和3年に大岡昇平とやっていた「学習会」では
ランボーの「少年時Enfance」を共訳しかけたことを大岡が証言していたりと
富永太郎に吹き込まれた京都時代以降のランボーへの取り組みは
この頃ますます盛んになっていました。
「少年時」は
昭和8年(1933年)7月20日発行の「四季」にも発表されます。
 
 
地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。
 
――という第2連などは
ランボーの「少年時」とクロスするところですが
中也の「少年時」は
やはり「中也の少年体験」です。
 
中也少年は
夏の昼下がり
一人野原を走って行ったのです。
 
世の亡ぶ兆のような「景色」を見たのですから。
 
午睡している時ではありませんでした。
 
 
麦の田を風は打ちつけ
おぼろで灰色の面。
 
その面を
巨大な雲の影が落ちている。
 
空を
伝説の巨人が飛んで行ったのか――。
 
 
目を疑うばかりの「景色」ですが
少年はその「景色」の向うに
何かほかのものをも同時に見たのです。
 
恐ろしいばかりではない何かを。
 
 
 
 

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