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生きているうちに読んでおきたい17・「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」

その1

「永訣の秋」に採るためには
「わかれの歌」でなければならない。
内容は現在ではなく
過去のものでなくてはならないということで
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は採られなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」は選ばれました。

愛児文也を追悼した詩「春日狂想」も
この流れに沿って読むことが可能になります。

追悼それ自体が客体化され
距離をもって眺められます。

現在の心境ではなく
そこから一歩引いたところで歌った追悼として
「春日狂想」を読めるようになります。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

――という冒頭行もそのように
読みはじめることができます。

「春日狂想」は昭和12年3月23日の制作とされているのは
文学界の同年5月号に掲載された詩(春日狂想)と
同日の日記に「文学界に詩稿発送」と記されている詩が合致することなどからの推定です。

3月23日といえば
中原中也が中村古峡療養所から退院して
40日近くが経過していることになり
文也の死から数えれば
およそ4か月の時間が過ぎたことになる日です。
それだけの時間が経過しました。

単なる時間の累積ばかりではなく
半強制的に文也の死との距離を置くことを命じられた時間を経たことで
文也の死を
直後の衝撃とは異なる受け止め方をできるようになっていたと言えるのでしょうか。

時間が何らかの解決になったとは
たやすく言うことはできませんが
直後と4か月後との受け止め方には
違いがあることを想像することはできそうです。

その2

「春日狂想」は
「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」の前にあり
「正午」に続いています。

「永訣の秋」のラインアップを
ここで再度見ておきますと

ゆきてかえらぬ
一つのメルヘン
幻影
あばずれ女の亭主が歌った
言葉なき歌
月夜の浜辺
また来ん春……
月の光 その一
月の光 その二
村の時計
或る男の肖像
冬の長門峡
米子
正午
春日狂想
蛙声
――の16篇です。

このうち文也の死を直接追悼したのは
「また来ん春……」とこの「春日狂想」、
間接的に歌ったのが「月夜の浜辺」と「月の光」の2作と「冬の長門峡」ということになります。
(※「月夜の浜辺」は、文也の死以前の制作と推定する説が最近の研究では有力のようです。)

まず「春日狂想」をざっと読んでみましょう。
次に何度も何度も繰り返し読んでみましょう。
そうでもしないとこの詩を味わうのは無理ですから。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
――の冒頭行のインパクトが強烈なため
読み終えてもこの詩句が頭の中にこびりつくようなことになりますから
それだけではこの詩を読んだことにはならないので
全体を最後まで読むのです。

すると
1、2、3の3節で構成されている、
1は詩の導入部ですんなり読めるけれど
2はなかなか味わい深くて
汲めども汲めども尽きせぬ奥深さを感じて
繰り返し読んでいるとどんどんどんどん味が出てきて
同時に幾つもの疑問も出てきて
その疑問を解こうと熱中していて
いつしか呆けたような時間の中にいて
まことに、人生、花嫁御寮と詩の一節を諳(そら)んじていたり
3ではっと我に帰ったり……

特に2の《 》の中の

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

――という文句はだれの言葉なのか。
だれが喋っているのかと釘付けにされます。

まことに人生というフレーズは
この《 》内のほかに
地の文(=詩の本文)にも2回現われますから
これはいったいどういうことかと思い巡らせば
アルチュール・ランボーの詩のドラマ仕立てか!
ギリシア悲劇のコロス(合唱)なのか!

それにしても
全篇77音(ときに8音)で貫(つらぬ)いて
狙われたのは何なのだろうなどと
詩の構造および詩を作る技(わざ)へ関心を引きつけられますが。

 

詩人は
詩の技の完成度など
てんで気にしていないように
この詩を作っているようで
では何をもっとも大切にしたのかと
繰り返し読む度(たび)に
繰り返し考えさせられるのです。

その3

「春日狂想」の1は
内容は強烈でありながら
詩が詩人の心のうちを明らかにするという形の上では普通にはじめられていますが
2の後半の《 》でくくられた

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

――にさしかかって
詩のその形(構造)に変質が生じています。

この《 》の前に

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

――と、「わたし」が登場しますから
すくなくもとこの行までは
わたし=詩人が心のうちを明かし
愛する者を亡くしたら自殺しなきゃあならないと行き場を失っていたところを
生き永らえているわたしがこの後も生きていくためには
奉仕の気持ちにならなくてはならないことを述べ、

奉仕の気持ちになるといっても格別なこともできないので
以前より本を読むときは熟読し
以前より人には丁寧に接し
テンポ正しい散歩を心がけ
麦稈真田(ばっかんさなだ)を編むように敬虔な気持ちで
まるで毎日を日曜日のように
まるで毎日を玩具(おもちゃ)の兵隊のようにして、

鎌倉らしい街を歩いて
色とりどりの光景や行き交う人々との交渉を
一つひとつ歌いはじめて
神社(きっと鶴岡八幡宮でしょう)にやってきて、

人生は
一瞬の夢
ゴム風船の
美しさ
――というコロス(合唱)を聞くのです。

それはどこからともなく聞こえてきたというより
テンポ正しい散歩をしてきた詩人の胸の内にあった感慨が
大人数の男性女性の声に成り変って
地の底から湧いてきたかのように現われるものですから違和感はなく
これが誰のものであるかなどという疑問は生じませんが
よく読めば地(じ)の声とは異なります。

詩の形の上では
地の声とは異なりますが
これは詩人の声でもあります。

神社の境内を
ゴム風船がふわりふわりと飛んでいったのを
詩人は目にしたのかもしれませんが
それはただの風景描写に置き換える以上の思いを抱かせたのでしょう。

 

コロスの合唱に仕立てる技が
自然の流れで出てきたのでした。

その4

「春日狂想」の
コロスの合唱を思わせる
《まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。》
――にある「まことに人生」という詩句は
地の声の「まことに人生」に引き取られて

まことに人生、花嫁御寮
まことに、人生、花嫁御寮
――と歌われる構造になっていることがわかってきます。

2のこの後半部分は
テンポ正しい散歩の途中で
誰だか親しい友人だか古い知人だか
しばらく会っていなかった人にばったり出くわし
喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら話すシーンですが
このシーンへの導入となる

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

――にははじめ少し戸惑いますが
やがてなるほどなるほどと合点のいく流れを理解する
最大のヤマです。

やあ、今日は、と語るのは
誰であり誰に対してであるのか
詩人の友達が詩人に語っているのかその逆か
友達ではなく
幻想の長谷川泰子がここに出てきて
やあ、しばらくと駆け寄ってきたのか
いや、これは文也がゴム風船に乗ってやってきて
詩人に語りかけているのだ
……などとあれやこれや考えてしまいますが

どうやらこれを語っているのは
詩人その人でありそうなことが
この語り口が堅苦しい感じで
普段の詩人らしくないことからわかってきます。

律儀(りちぎ)すぎる人に
詩人がなっている感じが
かえって詩人であることを明かしているのです。

詩人は
奉仕の気持ちを望んだのですから
その自分を揶揄(やゆ)するつもりはありません。

その詩人の目に
突如、花嫁行列が見えたのです!
実際に行列が通ったのを見たのかどうか

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。
――とありますから
単なる馬車であり、単なる電車(これは江ノ電か)だったのですが
それが花嫁御寮に見えるイマジネーション(感慨)が湧いたのです。

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。
――が
まことに人生、花嫁御寮。
――にこうしてクロスオーバーします。

 

2の後半部には
説明らしきものはありません。
テンポ正しき散歩が俄然乱れたような印象がありますが
この乱れこそこの詩が目指しているものです。

 

その5

鎌倉らしき街を散歩中の詩人は
神社の日向(日陰)
知人
飴売り爺々

地面
草木

参詣人
ゴム風船
茶店
馬車
電車
……など次々と目に触れてくるものの一つ一つが
取り立てて新鮮なものでもなければ
取り立ててつまらないものでもない
どうといったこともないお天気の1日で
参詣人がゾロゾロ歩いていても
腹が立たない時間の中にいます。

といえば
無感動の日々を送っているということになりますが
そういうことではなく
一つ一つの事物が一つ一つ瑞々しく
あるがままの生命を呼吸していて
過大でもなく過小でもなく
適度なリズムを刻んでいる状態にあることを歌っています。

ゴム風船も
そのような事物の一つに過ぎず
ほかの事物と同じものですが
詩人には
これらの事物一つ一つも
ゴム風船も
人生であり
美しい
一瞬の夢と映ったのです。

どういうことが
詩人に起こったのでしょうか?
この詩になにが起こったのでしょうか?

なぜここに人生なのでしょうか?

人生とは
誰のものを指しているのでしょうか?

これは文也の人生なのではないでしょうか?
文也の人生を指して
美しい一瞬の夢と
コロスに歌わせたのでしょうか?

それとも詩人自身の人生なのでしょうか?

それとも人生一般なのでしょうか?

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

この3連で
この詩は急展開します。
断絶、揺らぎ、飛躍、省略、説明排除……乱調。

この急展開は
一見して乱れのようにも見えますが
ここがこの詩の急所です。

なんにも腹が立たない詩人の目に映った
ゴム風船が空に昇って光って消えていったそこから
やあコンニチワといって現われる詩人。

この過程で
詩人は変身します。
変質します。

人生を一瞬の夢といい
ゴム風船を美しいというのは
人生はゴム風船で美しいものということですから
ここで一瞬の夢のようであった愛児・文也が暗示されています。

ここで
詩人は文也の死を受容しているのです。

受容とは
奉仕することの別の言い方です。

受容した途端に
テンポが乱れるようなことが起こっていますが
偶然にも(?) 花嫁御寮の歌が聞こえてきます!

 

人生はゴム風船
人生は花嫁御寮。
どちらも美しい。

 

その6

玩具の兵隊になったような
毎日が日曜日のような
テンポ正しい散歩を続けている詩人は
ある時空に舞い上がるゴム風船を目撃し
はかなさのようなものを感じ
美しさを見ます。

人生は短い
一瞬の夢
まるであのゴム風船のようだ
美しいというほかに言いようがないものだ。

愛児文也の死をも
詩人は
このように受け止めたのですが
それをコロスの声としても言わせたのです。

あらゆる事物が
おのおのの存在の重力に耐え
さりげなさそうに輝いているが
やがては朽ち枯れ死んでゆく
絶対的事実。

――と思ったかどうか。

《 》の中に登場するゴム風船は
詩の地の文に引き継がれて
空に昇って光って消えてゆきます。

コロスの合唱と地の声は
ここで溶け合うのです。

ゴム風船は
空に消えてしまったものですから
ふたたび現われることはありませんが
やがては
花嫁御寮に生まれ変わったかのように
賑やかな街の光景の一つとして現われます。
そして……

まことに人生、花嫁御寮
まことに、人生、花嫁御寮、と
一瞬の夢は、いつしか、花嫁御寮に成り変ります。

人生は一瞬の夢と
人生は花嫁御寮とが
溶け合ってしまいます。

花嫁御寮に
文也の影を見るのはおかしいことでしょうか?

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

――2の末行の
やんちゃな口語会話体には
元気な詩人が復活している感じがあり
文也が花嫁をもらう年頃を夢想する詩人が
やんちゃの下に隠れていそうな気がしますが
考えすぎでしょうか。

 

その7

「春日狂想」は
全行が口語会話体で書かれていますが
2の末行、

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

――に現われるやんちゃな口ぶりは
詩人の地(じ)が露わになったようで
テンポ正しい散歩が今にも崩れそうな気配を見せます。
ということは
奉仕の気持ちなんぞしゃらくせいとばかり
その気持ちを捨ててしまうことなのでもありますが
そのような展開にはならずに詩はここで打ち切られます。

あたかも脱線に気がつき
ハンドルを握りなおすかのように3では、
ではみなさん、と
だれでもないだれか――幻の聴衆――読者に向かって
呼びかけを始めます。

だれでもないだれかは……おのれでもあります。

ヨロコビスギズ
カナシミスギズ
テンポタダシク
アクシュヲシマショウ

ツマリワレラニ
カケテルモノハ
ジッチョクナンゾト
ココロエマシテ

ハイデハミナサン
ハイゴイッショニ
テンポタダシク
アクシュヲシマショウ

七七調を堅持して
今度は
テンポ正しく、握手をしましょう
――と散歩を握手に変えて
春日狂想を終えるのです。

握手は散歩と同じようなものです。
同じものである以上に
テンポ正しい散歩は
自ずと正しい握手へつながっていくものですよ、と言いたげであります。

ではみなさん
ハイ、ではみなさん
ハイ、御一緒に
――と呼びかける詩人は
いったい何処(どこ)から発声しているのでしょうか?

古代ギリシアの円形劇場の
オルケストラ(祭壇)のようなところから
人っ子一人いない観衆席に向かって
やや声を高めて演説する詩人の姿が見えてきはしないでしょうか?

いや! 祭壇のコロスの声に唱和する詩人には
満員の観衆が見えていたのかもしれません。

(この項終わり)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。


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