中原中也の詩に現われる色の色々5
その1
「ノート1924」は
中原中也が残した最も古いノート。
これを使用していた時期に
長谷川泰子と同棲し
京都を訪れた富永太郎と知り合っています。
使用されたのは京都時代ばかりではなく
上京して、幻となった第1詩集を編集した昭和2~3年にも使用されています。
ダダから脱け出そうとしていた過渡期の作品といえる時期に
「浮浪歌」以下7篇がこのノートに記されました。
そこに現われた「色」を拾います。
◇
「浮浪歌」
こんなに暖い土色の
代証人の背の色
「無題」
あなたより 白き虹より
(秋の日を歩み疲れて)
川果の 灰に光りて
「秋の日」
秋の日は 白き物音
黒き石 興をおさめて
「無題」
緋のいろに心はなごみ
金色の胸綬(コルセット)して
死の神の黒き涙腺
緋の色に心休まる
◇
この時期にはまた泰子との別離がありました。
泰子は小林秀雄のもとへと去りました。
その影響が「色」にあるかどうか。
とうていそんなことは突き止められませんが
詩に変化が見られることは確かです。
とはいえ「むなしさ」や「朝の歌」がすでに歌われていたにもかかわらず
ダダの匂いがぷんぷんしています。
「死の神の黒き涙腺」など
ダダそのものですが
詩の方向はダダならぬものにありました。
◇
その2
「草稿詩篇(1925年―1928年)」として分類・整理された詩篇は
19篇があります。
草稿とは
下書きとか草案とかメモとかの意味で
要するに「原稿」のことで
清書されたり、印刷されたりする以前の状態の
肉筆原稿である場合が多いことを示しています。
冒頭に配置された「退屈の中の肉親的恐怖」は
書簡の中に書かれていたものです。
中原中也が残した書簡の中で最も古いと推定されている
大正14年(1925年)2月23日付け正岡忠三郎宛の中に記されたもの。
ノート以外に残った詩篇の最古のものということでもあります。
この書簡は
当時、京都帝国大学の1年生であった正岡に
新住所を知らせるものでした。
この住まいに詩人は
長谷川泰子と2週間ほど暮らした後に上京します。
次に置かれた「或る心の一季節」は
したがって東京で書かれたものです。
19篇の詩篇のそれぞれには
この種の由来があります。
◇
「草稿詩篇(1925年―1928年)」の詩に現われた
「色」をピックアップします。
「退屈の中の肉親的恐怖」
此の日白と黒との独楽廻り廻る
茶色の上に乳色の一閑張は地平をすべり
「或る心の一季節」
其処に安座した大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出だす。
だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛の病床に来ては呉ない。
此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待っているように思える――
「かの女」
露じめる夜のかぐろき空に、
「少年時」
彼の女の溜息にはピンクの竹紙。
それが少し藤色がかって匂うので、
私は母から顔を反向ける。
「夜寒の都会」
この洟色の目の婦(おんな)、
黄銅の胸像が歩いて行った。
私は沈黙から紫がかった、
数箇の苺(いちご)を受けとった。
「無題」
その小児は色白く、水草の青みに揺れた、
その瞼(まぶた)は赤く、その眼(まなこ)は恐れていた。
「春の雨」
ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
「屠殺所」
六月の野の土赫(あか)く、
「夏の夜」
吊られている赤や緑の薄汚いランプは、
蔦蔓が黝々(くろぐろ)と匐いのぼっている、
結局私は薔薇色の蜘蛛だ、夏の夕方は紫に息づいている。
「冬の日」
冷たい白い冬の日だった。
ほのかな下萠(したもえ)の色をした、
下萠の色の風が吹いて。
「幼なかりし日」
青空を、追いてゆきしにあらざるか?
「秋の夜」
森が黒く
空を恨(うら)む。
◇
「草稿詩篇(1925年―1928年)」の後半には
計画していて未完に終わった第1詩集のための作品群があります。
みな昭和2年―3年の制作と推定されています。
だからといって
これらに現われる「色」に特徴があるかどうかなどを
あげつらうことはできません。
私は薔薇色の蜘蛛だ、夏の夕方は紫に息づいている。
――という「夏の夜」の色は
それにしても、鮮烈!
目の覚めるようなインパクトがあります。
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