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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年3月22日

その1
 
「89 3月22日 安原喜弘宛 葉書」は
京都に寄って安原と再会した詩人が
帰郷して2週間ほど後に出した手紙です。
 
 
先日来、雨や雪がよく降りましたが、今日あたりから晴れがつづくだろうと思われます。
 
 
これだけのことを書いた手紙です。
京都で「しんみりと酒を飲んだ」二人が
話を続けているようなたわいない1行です。
 
この手紙に寄せた安原のコメントは、
これまで溜めておいた心のうちを
長いクレッシェンドの後に「この時」とばかりに強く、
しかし抑制した響きで伝えて
読む者の胸を熱くさせるものがあります。
 
 
昭和7年に入って10番目のこの手紙へのコメントには
詩人が東京に出てきて数年後に出会い
鎌倉に没するまでの12年間のうち9年間を
最も近くにあった親友であるからこそ知る詩人の「内部」を
「心」で感じとっていた者の深い眼差しがあります。
 
そのコメントをまずはじっくりと読んでみましょう。
 
 
 私への温いいざないのはがきである。
 
 私はこの付きの24日に“おみこし”を挙げ詩人の郷里訪問の途についた。そして5日の間彼及彼の家族の方々の誠に心からの手厚い歓待に身を委せた。この間彼はくさぐさの心遣いを以て私を労わり、細心の準備を以て私に郷土を紹介した。彼はそこの気候、風土、地勢、歴史、人情、物産、酒、女のことごとくを私に語るのだった。或時は長門峡の流れに盃を挙げ、或る時は秋吉の鍾乳洞の神秘を探った。長門峡では俄雨に襲われた。岩を噛む清流は忽ち滔々たる濁流となった。私達は岩陰にあるたった一軒の休み茶屋の縁に腰を下ろし、耳を聾する流の音を聞きながら静かに酒を汲んだ。彼は少しずつではあるが絶えず物語った。やがて真赤な夕陽が雨上りの雲の割れ目からこの谷間の景色を血の様に染めた。己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであった。そしてそれを私に語ろうとした。然しながら彼の顔には何事か語り尽し得ぬ焦燥と失望の色が漂うのであった。私は今もそれを思うのである。何事であるか。
 
 帰途彼は汽車で途中まで私を送って来た。彼は未だ何か私を離したくない様子であった。何事か重大な事柄が彼の心の中に残されている風であった。途中天神様のある古風な町で下車してそこのうらさびれた街々をあてもなく逍遥(さまよ)った。彼は遂に語らなかった。私は夜遅い汽車で東に去った。
 
(※「行アキ」を加えました。” ”で示したところは、原文では傍点になっています。編者。)
 
 
その2
 
安原喜弘が中原中也の「内部」に生じていると感じた「何事か」とは何か――。
中原中也のうちに生じている「何事か」とは何か――。
 
それは二人ともがそれぞれついに明かし得なかった難問だったのでしょうか。
それは、「山羊の歌」発行計画となんらかの関係があったものでしょうか。
 
「89 3月22日 安原喜弘宛 葉書」へ寄せた
安原のコメントの残り5分の1ほどを読み進めましょう。
 
 
 私は一旦京都に寄り、荷物を纏めて東京に引揚げた。私の京都生活も終ったのである。
 詩人も2週間程して東京に帰って来た。詩人と私との交流は益々繁くなった。月のうち20日は私が彼を訪れるか彼が私の宅に来るか、それともどこかで落ち合うかして行を共にすることになるのである・やがて第1信が届いた。
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。洋数字に変換してあります。編者。)
 
 
詩人が東京から山口へ帰る途次に京都へ寄り
その2週間後に安原へ送った手紙が3月22日で
安原は24日に詩人のいる山口・湯田温泉へ向かい
山口・湯田温泉に着いてから5日間を過ごし
山口から京都へ戻って引越しの荷物をまとめて帰京した安原を
その2週間後に詩人は追うようにして上京……。
 
およそ1か月の間のことでした。
新幹線もない昭和初期のことでした。
 
一種異様とも見えなくはない
二人のこの行動を「内部」で突き動かしていた「何事か」……。
 
 
中原中也が残した手紙の中に
その答えは記されることになるのでしょうか?
 
 
その3
 
「89 3月22日 安原喜弘宛 葉書」へ寄せた安原のコメントは
中原中也が前年来の不調から元気を取り戻していく過程にシンクロして
自らを「表現」するかのような「強い」調子を響かせます。
 
「強い」といっても
安原流にですが。
 
たとえばそれは、
 
己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであった。そしてそれを私に語ろうとした。然しながら彼の顔には何事か語り尽し得ぬ焦燥と失望の色が漂うのであった。私は今もそれを思うのである。何事であるか。
 
――と記す「何事か」という疑問に現われます。
 
それは
どんなに親しくどんなに深い友人の間柄であっても
ある瞬間において、なお、謎(なぞ)として残された問いのようなものです。
 
が……。
 
その瞬間に謎であっても
その後、ずっと、その謎と向き合ってきた当人にとっては
ある答えが培(つちか)われていて
今や、確信されているような答えであって
しかし、それを他者に語るまでに至らない……。
 
 
長門峡に、水は流れてありにけり
 
 
昭和11年(1936年)12月24日の初稿が作られたとされる「冬の長門峡」と
昭和7年(19324年)の長門峡と
二つの長門峡は
明らかに「体験された景色」としては異なるものであるのに
まるで同じもののように感じら取られた! という奇跡。
 
同じものではないのに
同じもののように。
 
 
安原喜弘が
 
やがて真赤な夕陽が雨上りの雲の割れ目からこの谷間の景色を血の様に染めた。
己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであった。
そしてそれを私に語ろうとした。
然しながら彼の顔には何事か語り尽し得ぬ焦燥と失望の色が漂うのであった。
私は今もそれを思うのである。
何事であるか。
(※改行を加えてあります。編者)
 
――と記したのは昭和15、6年のことでした。
 
 
愛息・文也を失った悲しみが底に流れる「冬の長門峡」は
遡(さかのぼ)れば……
 
詩人が生まれてこの方、
この地を訪れる度に
そのせせらぎの音に身をゆだねる詩人が感じ取ったに違いのない
何事か
語り尽くせない
焦燥と失望の色。
 
――と、そう読めと安原は言っているわけではありませんが
そう読むといっそう深みを味わうことができる詩になります。
 
 
今回はここまで。
「冬の長門峡」を載せておきます。
 
 
冬の長門峡
 
長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
 
われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。
 
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
 
水は、恰(あたか)も魂あるものの如(ごと)く、
流れ流れてありにけり。
 
やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。
 
ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。
 

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