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飢餓の祭り

 
   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
    驢馬に乗って失せろ。
 
 俺に食慾(くいけ)があるとしてもだ
 土や礫(いし)に対してくらいだ。
 Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食おう、
岩を、炭を、鉄を食おう。
 
 飢餓よ、あっちけ。草をやれ、
   音(おん)の牧場に!
 昼顔の、愉快な毒でも
   吸うがいい。
 
乞食が砕いた礫(いし)でも啖(くら)え、
 教会堂の古びた石でも、
 洪水の子の磧の石でも、
 寒い谷間の麺麭(パン)でも啖え!
 
 飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、
   空鳴り渡る鐘の音。
 ーー俺の袖引く胃の腑こそ、
   それこそ不幸というものさ。
 
 土から葉っぱが現れた。
 熟れた果肉にありつこう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のじしゃ)に菫だ。
 
   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗って失せろ。
 
 
 
 

ひとくちメモ その1

中原中也が訳した「飢餓の祭り」Fêtes de la Faimも
原典はタイトルを持つ単独の詩ですが、
「地獄の季節」の「錯乱Ⅱ」「ことばの錬金術」に
「飢餓」のタイトルで
バリアント(異文)が引用されてもいる詩です。
 
内容や構成などが
「渇の喜劇」に類似することが
しばしば指摘される詩ですが、
「渇の喜劇」がダイアローグなのに対し
こちらはモノローグです。
 
モノローグでありながら
「劇」の登場人物のセリフのような
「喋り(しゃべり)」の感覚があります。
 
 
この翻訳が
富永太郎や小林秀雄との
交流の影を帯びていることも確実で
中原中也が京都から東京に出てきたころの状況を
想像しながら読む楽しさがあります。
 
 
富永太郎が
大正13年12月頃に
この詩を訳したことがわかっていますが、
大正14年に死去して後の
昭和2年出された遺稿集(私家版)には
「飢餓の饗宴」として収録され
中原中也が
これを読んだ可能性は高く、
 
小林秀雄訳の「地獄の季節」も
昭和5年に白水社から発行され
中に「飢」のタイトルで訳されますから
これを中原中也が読んだ可能性も高く、
 
しかし、
いつ読んだかは特定できません。
 
 
同時代訳を
読んでおきます。
 
 
富永太郎訳
飢餓の饗宴
 
  俺の饑(うえ)よ、アヌ、アヌ、
   驢馬に乗って 逃げろ。
 
俺に食気(くいけ)が あるとしたら、
食いたいものは、土と石。
ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空気を食おう、
岩を、火を、鉄を。
 
俺の饑(うえ)よ、廻れ、去れ。
   音(おん)の平原!
 
旋花(ひるがお)のはしゃいだ
   毒を吸え。
 
貧者の砕いた 礫を啖え、
  教会堂の 古びた石を、
  洪水の子なる 磧(かわら)の石を、
  くすんだ谷に 臥ている麺麭(ぱん)を。
 
俺の饑は、黒い空気のどんづまり、
  鳴り響く蒼空!
――俺を牽くのは 胃の腑ばかり、
  それが不幸だ。
 
地の上に 葉が現われた。
饐えた果実の 肉へ行こう。
畝(うね)の胸で 俺が摘むのは、
野蒿苣(のぢしゃ)に菫。
 
  俺の餓(うえ)よ、アヌ、アヌ、
  驢馬に乗って 逃げろ。
 
(思潮社「富永太郎詩集」より)
※現代表記に改めました。編者。
 
 
小林秀雄訳
 
俺に食いけがあるならば
先ず石くれか土くれか。
毎朝、俺が食うものは
空気に岩に炭に鉄。
 
俺の餓鬼奴ら、横を向け、
糠の牧場で腹肥やせ。
昼顔の陽気な毒を吸え。
 
出水の後の河原石、
踏み砕かれた砂利を食え、
教会堂の朽ち石を、
みじめな窪地に播かれたパンを。
 
(岩波文庫「地獄の季節」より)
 
 
中原中也生存中に公刊された
「近代佛蘭西詩集」(昭和3年)に収録されているので
読んだ可能性を否定できない
大木篤夫の訳です。
 
飢餓の饗宴
 
俺の空(すき)っ腹(ぱら)、アンヌよ、アンヌ、
驢馬(アンヌ)に乗って、さっさと失せろよ。
 
味に好みがあったところで
せいぜい土か、石っころだよ。
ディン! ディン! ディン! ディン!食ってやれ、空気を、
ええ、岩でも、炭でも、鉄でもよ。
 
俺の空(すき)っ腹(ぱら)、くるッと廻れよ、
食べろよ、糠(ぬか)の原っぱを!
ぐっと搾れよ、昼顔の
陶酔気分の毒液を。
 
さあ、さあ食べろよ、貧乏人が砕いた礫(つぶて)を、
教会堂の古石を、
洪水(でみず)の忰の 河原(かわら)の小石を、
灰色の渓間にころがるパン片(ぎれ)を!
 
俺の空(すき)っ腹(ぱら)、それはそれ黒い空気の切れ端(ぱし)だよ、
喇叭(ラッパ)を吹き鳴らす青空だよ、
――俺を引きずる胃袋だよ、
   不幸だよ。
 
地上に、木の葉が現れた!
俺は行こうよ、熟れきっている果(み)を捩(も)ぎに。
畑の胸に、俺は摘もうよ
野萵苣(のぢしゃ)を、すみれを。
 
俺の空(すき)っ腹(ぱら)、アンヌよ、アンヌ、
驢馬(アンヌ)に乗って、さっさと失せろよ。
 
(ARS「近代佛蘭西詩集」より)
※新漢字、現代表記に改めました。編者。
 
ひとくちメモ その2
 
「飢餓の祭り」Fêtes de la Faimとは
いったい、どんな歌=シャンソンなのでしょう?
 
「アンヌ、アンヌ、」とか
「Dinn! dinn! dinn! dinn!」とか
 
まっさきに
このフランス語の響きに
違和感をくすぐられるのですが……
 
 
俺がいま、その中にある飢餓に、
アンヌという女性の名をつけて呼び、
アンヌよ、飢餓よ、
アン=驢馬に乗って
とっとと消えろ、と
敵対するというより
やさしく語りかける内面劇が見えてきます。
 
そう読んでよいものか――。
 
飢餓の中にあるのは俺ですが
俺は飢餓に
恋人かとおぼしいアンヌの名で呼びかけます
 
 
俺の飢餓よ
アンヌ、アンヌ、
アンに乗って消えちまえ。
 
俺にゃあ並みの食欲なんてないのさ
あったとしても土や石っころに対してぐらいなもんさ。
ヂンヂンヂンヂン! 空気を食おうってんだ、
岩を、炭を、鉄をね。
 
飢餓よ、あっちへ行け。
そして、草をやれ、
音の牧場に!
昼顔の、ゆかいな毒でも
吸ってりゃいいんだ。
 
乞食が砕いた石っころでも喰らってろ、
教会の古びた石、
洪水の子・河原の石、
寒い谷間のパン
そんなものを食ってろ。
 
飢餓とは、黒い空気のどんづまりさ、
空を鳴り渡る鐘の音さ。
――俺の袖を引っ張る胃袋こそが、
不幸ってものなのさ。
 
土から葉っぱが出て来た。
熟した果実にありつける。
畑に俺が摘むものは
野生のチシャとかスミレだよ。
 
俺の飢餓よ
アンヌ、アンヌ、
アンに乗って消えちまえ。
 
 
お前は
俺がそんなことで
参るとでも思ってるのか?
飢餓よ。
 
 
「地獄の季節」中「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」にこの詩を引用したとき
ランボーは、
 
俺は、沙漠を、萎(しお)れ枯れた果樹園を、色褪(あ)せた商店を、生ぬるい飲料を愛した。疲れた足を引摺り、臭い路次を過ぎ、瞑目してこの身を火の神太陽に献げた。
 
「将軍よ、君は崩れた堡塁に、古ぼけた大砲が残っているならば、乾いた土の塊をこめて、俺たちを砲撃してはくれまいか。すばらしい商店の飾窓を狙うんだ、サロンにぶち込むんだ。街にどろっ埃を食わせてやれ。蛇口などは皆んな錆びつかせてやれ。閨房にはどいつも焼けつくような紅玉の煙硝をつめ込んじまえ……」
 
ああ、羽虫は、瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、一筋の光に姿を消すか。
(小林秀雄訳)
 
――と、前置きしています。
 
ひとくちメモ その3
 
俺は、
沙漠を、
萎(しお)れ枯れた果樹園を、
色褪(あ)せた商店を、
生ぬるい飲料を愛した。
 
疲れた足を引摺り、
臭い路次を過ぎ、
瞑目して
この身を火の神太陽に献げた。
 
「将軍よ、
君は崩れた堡塁に、
古ぼけた大砲が残っているならば、
乾いた土の塊をこめて、
俺たちを砲撃してはくれまいか。
すばらしい商店の飾窓を狙うんだ、
サロンにぶち込むんだ。
街にどろっ埃を食わせてやれ。
蛇口などは皆んな錆びつかせてやれ。
閨房には
どいつも焼けつくような
紅玉の煙硝をつめ込んじまえ……」
 
ああ、
羽虫は、
瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、
旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、
一筋の光に姿を消すか。
(小林秀雄訳)
 
――と、ランボーが
「地獄の季節」「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」に記したのを
こうして「改行」を入れて読んでみると
散文詩が韻文詩に変化することに気づきます。
(※という、単純なものでないことを断っておきますが。)
 
ここは「飢餓」と題する詩を引用するためのリードなのですが
引用詩「飢餓」は
「飢餓の祭り」のバリアント(異文)であることは言うまでもなく
この流れから「飢餓の祭り」を読めば
もう少し深い読みが出来るようになってくることにも気づきます。
 
 
「瑠璃萵苣(るりちさ)」とリード部に現れているのは
 
 土から葉つぱが現れた。
 熟れた果肉にありつかう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のぢしや)に菫だ。
 
――と、「飢餓の祭り」にある「野蒿苣(のぢしや)」と同じ植物ですから
 
ああ、
羽虫は、
瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、
旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、
一筋の光に姿を消すか。
 
――を、じっくり読めば、
「飢餓の祭り」へと繋がる糸口を見つけることができそうです。
 
 
羽虫(ハエとかアブとか)が
毒草だか、ハーブ(香草)だか、
ルリチシャの葉っぱを渇望していたところが
田舎旅館の小便所の臭いでフラフラになり
折しも、落日が輝く中に溶けていく……。
 
この情景は
 
俺は、
沙漠を、
萎(しお)れ枯れた果樹園を、
色褪(あ)せた商店を、
生ぬるい飲料を愛した。
 
疲れた足を引摺り、
臭い路次を過ぎ、
瞑目して
この身を火の神太陽に献げた。
 
――と、同じことの繰り返しに過ぎませんし、
「将軍よ、」とはじまるモノローグ(?)の繰り返しでもあります。
 
 
「飢餓の祭り」が
フラフラ状態の羽虫の行く末であることが
見えて来はしないでしょうか?
 
 
ランボーは
「言葉の錬金術」の手の内を
見せてくれています。
大放出です!
 
 
中原中也の翻訳が
このあたりのツボを押さえていて
してやったり! の声調に満ちているのは
富永太郎や小林秀雄や大岡昇平(ら)との
ランボー論議を通じているからであると思えてなりませんが、
これも実証の範囲にありません。
 
ひとくちメモ その4
 
「新編中原中也全集」の編集委員である
宇佐美斉は
「ランボー全詩集」(ちくま文庫)の訳者でもありますが
同書の「地獄の季節」の中の
引用詩「飢餓」を導く前文についての脚注で
見事な解説をしていますから
ここに紹介しておきましょう。
 
 
「ランボー全詩集」には
「後期韻文詩」の中に「飢餓の祭」、
「地獄の季節」の中に「飢餓」と、
二つの詩が異稿として翻訳されています。
 
その「地獄の季節」の引用詩「飢餓」のリードに
「おお! るりじしゃに懸想して」とはじまるフレーズ2行への
簡単な注釈ですが、
わかりやすくするために
あわせて「飢餓」本体の訳も載せておきます。
 
まず、リード部です。
小林秀雄訳では、
 
ああ、
羽虫は、
瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、
旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、
一筋の光に姿を消すか。
 
――となっている引用詩の直前の文です。
 
 
おお! るりじしゃに懸想して、旅籠(やど)の共同便所に酔い痴れている羽虫、そいつも一条の光に溶けてしまうのだ!
 
 
つぎに脚注です。
この解説が秀逸!
 
 
「おお! るりじしゃに懸想して」 この二行の真意は、おそらく次のような自虐のいりまじった軽やかな諧謔にある。すなわち「るりじしゃ」は利尿剤として用いられる薬草でもある。その花の蜜をすい香をかいだ羽虫は、にわかに尿意をもよおして宿の便所に駆けつけ、アンモニアの臭いにむせながらそこで‘よたっている’。そしてやがてこの頓馬な羽虫のナンセンスな一幕喜劇に幕を降ろすのは、洩れいる西日の一条の光である。――ここには確かに、ひとつのはかない夢の破産がこっそりと打ち明けられているのである。
 
 
このリードと
引用詩「飢餓」との関係については
述べられていませんが
リードがこのように読めるのなら
「飢餓」の鑑賞が
いっそう醍醐味を増すことは
確実というものでしょう。
 
 *
 
 飢餓の祭り
 
  俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。
 
俺に食慾(くひけ)があるとしてもだ
土や礫(いし)に対してくらゐだ。
Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食はう、
岩を、炭を、鉄を食はう。
 
飢餓よ、あつちけ。草をやれ、
  音(おん)の牧場に!
昼顔の、愉快な毒でも
  吸ふがいい。
 
乞食が砕いた礫(いし)でも啖(くら)へ、
 教会堂の古びた石でも、
 洪水の子の磧の石でも、
 寒い谷間の麺麭でも啖へ!
 
 飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、
   空鳴り渡る鐘の音。
 ――俺の袖引く胃の腑こそ、
   それこそ不幸といふものさ。
 
 土から葉つぱが現れた。
 熟れた果肉にありつかう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のぢしや)に菫だ。
 
   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。
 
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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