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「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」

その1
 
「少年時」で少年が見た「世の亡ぶ兆し」のようなものとは
「死」の世界なのではなく
その予兆でしたから
青黒い石に夏の日が照りつけ
赤い地面が眠っている静寂であると同時に
地平の果てに蒸気が立つ「生」の奔流でした。
 
麦田を風が打ちつけ
その面に落ちた雲の影は
さながら古代伝説の巨人。
 
「生」の奔流から湧き起こり
または奔流に向かうかの生き物(雲の影)のように見えたのです。
 
昼過ぎに広い野原を行く雲の影を
中也少年は実際に見たのでしょう。
 
 
死と隣り合わせの生――。
 
見てはいけない「この世の深淵」を
ひとりぼっちの少年はその目で見ました。
 
ゾクゾクとこみ上げてくる興奮。
 
宝島を見つけてしまったような……。
 
 
「少年時」の次に配置された「盲目の秋」は
第1節(Ⅰ)で「少年時」と連続するような時間を歌います。
 
 
盲目の秋
 
   Ⅰ
 
風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。
 
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
 
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。
 
もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
 
私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
 
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
 
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
 
      ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。
 
   Ⅱ
 
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
 
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
 
人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるままだ……
 
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。
 
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
 
   Ⅲ
 
私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……
 
それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……
 
おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
 
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。
 
   Ⅳ
 
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。
 
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
 
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
 
 
第2節(Ⅱ)以下では
あたかも別世界が開けるかのようで
戸惑わずにいられません。
 
その2
 
「盲目の秋」の詩人は
断崖絶壁に立っています。
 
 
風が立ち
波が騒ぐ……
 
眼下に激流を眺め
踏ん張る詩人。
 
無限がそこにあり
手が届きそうな所にあり
……
 
詩人は
無限に向かって腕を振ります。
 
無限に向かって
手を振っている「その」間に
奈落の底に
時折、小さな紅の花が見え隠れするのです。
 
長い間、無限の前で腕を振っていると紅の花が見え
その花はまた消えてなくなりますが
また花が見えまた消えたりしているうちに
ようやく詩人に生きた心地というものが戻ります。
 
 
「紅の花」は
もう永遠に帰らないと思う(諦める)詩人が
酷薄(こくはく)な嘆きを繰り返す中で見えたもの――。
 
青春であり
長谷川泰子のことであることがわかりますが
すぐさまそうはっきりとは明示されません。
 
 
私の青春は
堅い血管と化してしまった!
 
その中を
流れることもなく
曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽が行き過ぎる。
――と「曼珠沙華と夕陽」をメタファーにして泰子のことを歌いながら
去りゆく女が最後にくれる笑みの「ように」と
二重のメタファーの中に置いて「ぼかし」ます。
 
しかしそれ(曼珠沙華と夕陽)は
しずかで
きらびやかで
なみなみと湛え
厳かで
ゆたかで
それでいて侘しく
異様で
温かで
きらめいて胸に残る
……ものなのです。
 
泰子(または青春)以外ではありません。
 
 
「盲目の秋」のⅠで
詩人は断崖絶壁にいながら
紅の花を幻視します。
 
腕を振っているのは
こちら側(無限の前)です。
 
 
こうして第2章(Ⅱ)以下へのつながりを
第1章(Ⅰ)の中に見つけることができます。
 
その3
 
無限の前で腕を振っていた詩人は
突如、声高な響きの告白か懺悔(ざんげ)か
心に渦巻く己の声をぶちまけます。
 
 
   Ⅱ
 
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
 
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
 
人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるままだ……
 
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。
 
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
 
 
明るい場所から
あたかも大衆に向けて演説するかのように力強く
第2章(Ⅱ)は
自分を恃(たの)むこと=自恃(じじ)の大切さを訴えます。
 
もちろん、全ては自分に向けたエールみたいなもので
他人に向かって述べられた演説ではありません。
 
末連、
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
――は、
いかなる(困難な)日常を生きていようと
つまらぬことに動じないで
ほがらかに明るく
藁束のようにしみじみと、
 
朝霧をたっぷり含んだ煮釜のように
余裕をもってゆったりと
寝床から飛び起きられればよいと――
 
なかなか容易ではないはずである「自恃(じじ)」の
その「安定した」日々を送るための要点(ツボ)を
自らに確認します。
 
 
――と歌ったところで
今度はサンタ・マリアを呼び出して
これまでこらえていたものを一気に吐き出すのが第3章(Ⅲ)です。
 
泰子をサンタ・マリアに見立てて呼びかけるのです。
 
 
   Ⅲ
 
私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……
 
それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……
 
おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
 
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。
 
 
いまさらどうにもならない、と
「過去」のことにしてしまう未練を含ませながら
「俺とお前」は自然に愛したのだし
自然に愛することなんて何度もあることではなく
そんじょそこらに存在するものではない、と
泰子との愛の奇跡を歌いますが、
それを聞かせたい泰子は
いま傍(そば)にいません。
 
こうして、
第4章(Ⅳ)で
自分の臨終を歌うことになります。
 
 
   Ⅳ
 
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。
 
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
 
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
 
その4
 
「盲目の秋」第4章(Ⅳ)は
せめて死に瀕(ひん)しているときに
傍(そば)にいて胸を開いていてくれれば
思い残すことなく死出の旅ができると
あり得ない望みの幾つかを
「あの女」に向けて歌いますが……。
 
 
   Ⅳ
 
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。
 
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
 
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
 
 
「あの女」は泰子その人に違いありませんが
ここで泰子を名指しで歌わないのには
意味が込められていることでしょう。
 
次第に次第に
泰子は「過去の人」に客化される一方で
次第次第に
「恋人」としての輪郭をくっきりとさせてくるのです。
 
恋人といっても
詩の中でのヒロイン――。
 
泰子は
中也の詩の中で「恋人」としてよみがえります。
 
 
「せめて」という日本語は
最小限度の希望を述べる場合に使われますから
「あの女」がウソイツワリ(虚偽)なく
自然の状態になって私に現われてくれるだけでもよいという願いを意味するでしょう。
 
ところが、せめてあの女は胸を開いてくれるでしょうか、と
はじめ「でしょうか」という丁寧(ていねい)な疑問形で述べられる最低限度の希望は
いつしかそれだけのことではなくなり
その時には化粧していては欲しくないとか
何かを考えていてはいやとか
考えたとしてそれが私のことであってもいやとか
否定の幼児語(?)「いや」で条件が並べ立てられます。
 
 
この「いや」は
(あの女=泰子が)私の傍にいて
ただ静かに胸を開き私を見ていて
ただはららかに涙を含んでじっとしていることを願うための否定です。
この否定には甘えが含まれています。
 
もしも、涙が流れてくるようなことがあれば
……という(希望的)仮定のために紡(つむ)がれた詩の言葉です。
 
 
もしも、このような仮定(希望)が実現するのなら
涙を湛(たた)えたその息づかいのままで
私の上にうつ伏せになって
(私を抱いたまま)私の息の根を止めてくれ。
 
もしもそうしてくれるなら……。
 
「私を殺してしまってもいい」という許可(命令)の口調が生じ
そのように殺されるのなら
私は心地よく冥土への道を辿る(死ねる)ことができるという
(この時に詩人が描いていた)昇天のイメージが歌われることになり
4章になるこの詩は閉じられます。 
 
 
とうていあり得ない「恋人」の看取りを願望して
その「恋人」のあり得ない反応を願望して
もしもその願望が叶うならば心地よく死ねると歌う地点は
無限の前に腕を振っている詩人と
紙一重の距離にあって
こちら(生の)側からのものです。
 

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