「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・番外篇1
昭和8年前半期に制作(推定)された詩と
安原喜弘のいう「詩人の魂の動乱」は
どのような関係にあったのでしょうか。
前年末にピークを迎え
落ち着きはじめた「動乱」のようですが
「一人でカーニバルをやった」のは1月末です。
昭和8年前半制作の詩と「カーニバル」との間に
通じるものがなかったなどとは到底思えません。
◇
使われた言葉だけを見ても、
(ああわれは おぼれたるかな)では
「母上」や「羊」が現われ、
「母上」には、「涙ぬぐいてよ」と呼びかけ
「羊」は、「暗きにいる」のです。
◇
「小唄」は
三原山の自殺を歌った詩ですが、
これは当時、実践女学校生徒が伊豆大島・三原山で自殺したのをきっかけに
次々と同じ場所で投身自殺が続いたニュースを題材にしています。
世間を騒がせた事件を「小唄」と題して「唄う」詩です。
詩想を練るうちに迎えた朝、
寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
煙草くゆらせもの思いにふける詩人(第3連)。
七五のリズムをきざみ
煙が火山活動の噴煙ばかりではないことを
繰り返し歌う「小唄」ですから
三味の音が聞こえてきてもおかしくありません。
◇
「早春散歩」は
春まだき朝の散歩とはいえ
ただの散歩ではなく、
我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる
――
死んで2年にもならない
弟・恰三のことが思い出される散歩です。
◇
(形式整美のかの夢や)に至っては
ダダイスト高橋新吉への献呈詩です。
詩人は、昭和11年8月、「我が詩観」中の「詩的履歴書」という小自伝に
「(大正12年の)その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇の詩に感激。」と書きます。
その高橋新吉へのオマージュ以外ではあり得ません。
孤立を深めていたこの時期に
ダダイズムが現われ
そのダダイズムの実践者・高橋新吉へ
詩を献呈したという事実そのものの意味が重大です。
◇
(風が吹く、冷たい風は)にも
「早春散歩」に似た風が吹いていますが
汽車の旅にある詩人は、
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ
――という、無一物の身です。
何にも持たず
一人っきりであり、
七里結界に係累はないんだ
――で結ばれる詩は
さばさばした解放感を歌います。
◇
今回はここまで。
今回紹介した詩を再掲出しておきます。
*
(ああわれは おぼれたるかな)
ああわれは おぼれたるかな
物音は しずみゆきて
燈火(ともしび)は いよ明るくて
ああわれは おぼれたるかな
母上よ 涙ぬぐいてよ
朝(あした)には 生みのなやみに
けなげなる小馬の鼻翼
紫の雲のいろして
たからかに希(ねが)いはすれど
たからかに希いはすれど
轣轆(れきろく)と轎(くるま)ねりきて
――――――――
澄みにける羊は瞳
瞼(まぶた)もて暗きにいるよ
―――――――――――――
*
小 唄
僕は知ってる煙(けむ)が立つ
三原山には煙が立つ
行ってみたではないけれど
雪降り積った朝(あした)には
寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
煙草くゆらせ僕思う
三原山には煙が立つ
三原山には煙が立つ
(一九三三.二.一七)
*
早春散歩
空は晴れてても、建物には蔭(かげ)があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹(うすぎぬ)ででもあるように
ハンケチででもあるように
我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる
私はもう、まるで過去がなかったかのように
少なくとも通っている人達の手前そうであるかの如(ごと)くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のような眼眸(まなざし)をして、
確固たるものの如く、
また隙間風(すきまかぜ)にも消え去るものの如く
そうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎えるものであることを
ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立返ったのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思う、思うことにも慣れきって僕は思う……
*
(形式整美のかの夢や)
▲
高橋新吉に
形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎょうかく)の
土硬くして風寒み
希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と
身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上におどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる
(一九三三・四・二四)
*
(風が吹く、冷たい風は)
▲
風が吹く、冷たい風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせ
それを透かせてぼんやりと
遠くの山が見えまする汽車の朝
僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ
昨日は何をしたろうか日々何をしていたろうか
皆目僕は知りはせぬ
胸平板のうれしさよ
(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチョコナンとあることは、
小倉(こくら)服の駅員が寒そうであることは、幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)
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