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きらきら「初期詩篇」の世界/6「冬の雨の夜」

その1

「冬の雨の夜」も
「白痴群」へ発表されてから
「山羊の歌」の「初期詩篇」へ配置されたもので
「秋の一日」「深夜の思い」に続き3番目の詩ということになります。

冬の雨の夜
 
 冬の黒い夜をこめて
どしゃぶりの雨が降っていた。
――夕明下(ゆうあかりか)に投げいだされた、萎(しお)れ大根(だいこ)の陰惨さ、
あれはまだしも結構だった――
今や黒い冬の夜をこめ
どしゃぶりの雨が降っている。
亡き乙女達の声さえがして
aé ao, aé ao, éo, aéo éo!
 その雨の中を漂いながら
いつだか消えてなくなった、あの乳白の脬囊(ひょうのう)たち……
今や黒い冬の夜をこめ
どしゃぶりの雨が降っていて、
わが母上の帯締(おびじ)めも
雨水(うすい)に流れ、潰(つぶ)れてしまい、
人の情けのかずかずも
竟(つい)に密柑(みかん)の色のみだった?……

改行も「連分け」もない
16行ぶっ通しの珍しい構成の詩になったのは
元の詩が3節構成の「暗い天候三つ」だったからでしょうか。

「白痴群」第5号(昭和5年1月1日発行)に発表されたときの
3節構成の第1節を独立させて
新らしく「冬の雨の夜」とタイトルをつけたものがこの詩です。

「暗い天候三つ」の第2節、第3節は
「新編中原中也全集」第1巻中の「生前発表詩篇」に分類・掲出されていますから
ここで目を通しておきましょう。

暗い天候(二・三)
 
   二

こんなにフケが落ちる、
   秋の夜に、雨の音は
トタン屋根の上でしている……
   お道化(どけ)ているな――
しかしあんまり哀しすぎる。

犬が吠える、虫が鳴く、
   畜生(ちくしょう)! おまえ達には社交界も世間も、
ないだろ。着物一枚持たずに、
   俺も生きてみたいんだよ。

吠えるなら吠えろ、
   鳴くなら鳴け、
目に涙を湛(たた)えて俺は仰臥(ぎょうが)さ。
   さて、俺は何時(いつ)死ぬるのか、明日か明後日(あさって)か……
――やい、豚、寝ろ!

こんなにフケが落ちる、
   秋の夜に、雨の音は
トタン屋根の上でしている。
   なんだかお道化ているな
しかしあんまり哀しすぎる。

   三

この穢(けが)れた涙に汚れて、
今日も一日、過ごしたんだ。

暗い冬の日が梁(はり)や壁を搾(し)めつけるように、
私も搾められているんだ。

赤ン坊の泣声や、おひきずりの靴の音や、
昆布や烏賊(するめ)や洟紙(はながみ)や首巻や、

みんなみんな、街道沿(かいどうぞ)いの電線の方へ
荷馬車の音も耳に入らずに、舞い颺(あが)り舞い颺り

吁(ああ)! はたして昨日が晴日(おてんき)であったかどうかも、
私は思い出せないのであった。

   秋の夜に、雨の音は
トタン屋根の上でしている……
――と「二」にあり

暗い冬の日が梁(はり)や壁を搾(し)めつけるように、
――と「三」にあり

「冬の雨の夜」は
秋の夜の雨、冬の雨と歌った「暗い天候」の一つであることがわかります。

その2

「冬の雨の夜」が
「暗い天候」を歌った詩の1節であったということで
重たそうな黄昏の空や土砂降りの雨夜を歌った詩の流れが見えてきます。

「初期詩篇」では
「臨終」の
秋空は鈍色にして黒馬の瞳のひかり
「黄昏」の
渋った仄暗い池の表
「深夜の思い」の
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する
ヴェールを風に千々にされながら
……

これらは快晴ではない
雨にもならない
どんより重たい薄暗い空模様を背景に歌った詩でした。

「冬の雨の夜」では
ついに降り出し
土砂降りの雨です、それも夜です。
それも冬なのに雪ではなく雨です。

「初期詩篇」では
「深夜の思い」の次に配置され
マルガレエテがいつしか泰子の引っ越しをしているという
巧みな融合(ゆうごう)に眩惑(げんわく)されましたが
「冬の雨の夜」でも
それに似た混淆(こんこう)が仕組まれます。

冬の黒い夜をこめて
どしゃぶりの雨が降っていた
――という冒頭2行の雨は
今ここに降っている雨です。

その雨を眺めながら(あるいは雨の音を聞きながら)
昔見た「夕明下の萎れ大根の陰惨さ」を思い出している詩人は
「あれはまだしも結構だった」と感慨に耽っているのです。

今はもっと陰惨なのです。

今降っている土砂降りは
亡き乙女達(おとめたち)の声が
aé ao, aé ao, éo, aéo éo! と母音の発声練習かなにかをしているのですし
その雨の中に
昔のあるときに消えてしまった、
あの乳白の脬囊(ひょうのう)たちが漂い流れているのですし……
母上の帯締めも雨水に流され潰れてしまったのです。

今降っている土砂降りの雨は
亡き乙女達の声がしている雨なのに
その雨の中に
遠い昔の出来事が混入しているのです。

aé ao, aé ao, éo, aéo éo!
――とは、ランボーの詩「ブリュッセル」に現われる声の影響らしく(「新全集」第1巻・解題篇)
「深夜の思い」でマルガレエテに泰子が「乗り移った」ように
ここではランボーの乙女達が
詩人(中也)の昔の出来事と混淆するのです。

このような詩の作り方を
楽しんでいるかのようです。

この詩は
結局は末尾の2行
人の情けのかずかずも
竟(つい)に密柑(みかん)の色のみだった?……
(人の情というものも、つまるところ蜜柑の色のようなもの)
――という感慨を結(論)として述べて終わりますが
その2行よりも
詩人の遠い過去の出来事の難解さに足を奪われます。

詩人が抱くその陰惨さのイメージに
近づくことはできますが
「結論」にもう一つ溜飲が下がりません。

 

その3

「冬の雨の夜」が歌っている
詩人の遠い昔の出来事の幾つかは
初めてこの詩を読む人には案内が必要でしょう。

夕明下(ゆうあかりか)に投げいだされた、萎(しお)れ大根(だいこ)の陰惨さ
――は、想像をたくましくすれば
なんとか理解できます。

干した大根が、夕明かりの下で
軒先かどこかに吊るされているイメージ。

詩人の回想には
そこに「死(者)」がかぶさっていたかもしれません。

亡き乙女達の声さえがして
aé ao, aé ao, éo, aéo éo!
――がこれで導入されます。

いつだか消えてなくなった、あの乳白の脬囊(ひょうのう)たち……
――は、この行こそ「説明」を受けねば
理解もイメージすることもできません。

これは
詩人の実家で父・謙助が経営していた医院の風景です。

脬囊(ひょうのう)は、
膀胱(ぼうこう)のことで
牛や豚の膀胱が氷嚢(ひょうのう)として使われていた光景が
医院の作業室には普通に見られたのです。

それが、ゴム製品の開発で
使われなくなったことを歌っています。

わが母上の帯締(おびじ)め
――は、ここまで来れば普通にイメージできますが
「父」や「母」が現われたことには
特別の意味が込められています。

雪ならば
思い出は「降り積む」ことになり
次々に現われる走馬灯となりましょうが
ここは雨です、土砂降りです。

現われるものが次々に流されてゆきます。
人情も流されていってしまい
イメージの中に残るのは
そのようなものがあったなあという
ミカンのオレンジ色、その色だけだ……。

「人の情け」とは
「父」や「母」のものに違いありません。

末尾の「?……」は意味深長ですが
「結(論)」へ保留をつけたものか
それとも迷いか
あるいは「反語」でしょうか。

断言しがたいものがあったのです。

恋愛詩を盛んに歌う「白痴群」で
「冬の雨の夜」は異質です。

 

「初期詩篇」へ配置したのも
そのあたりの事情からでしょう。

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