「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月29日、2月16日、3月2日
引き続き
長期帰省中の昭和10年はじめに
中原中也が安原喜弘に宛てた手紙を読みます。
すべてが「はがき」に書かれました。
◇
「手紙87 1月29日 (はがき)」
前略 其後如何お暮しですか 「春と修羅」落手有難うございました 少し田舎に倦いて来ました 女房の眼病がまた再発して弱っております 尤も今度は先のように角膜と虹彩との併発ではありませんから先のにくらべれば余程楽ですが 翻訳は漸く半分と一寸すませました 今日は偶によいお天気で久しぶりでいい気持です 段々春になるにはなるんです 早く翻訳をすませてさっぱりしたいと思います では又、呑気にお暮しの程祈上げます 不一
◇
「春と修羅」は、宮沢賢治論を書くために必要としていたものでしょう。
遠い日に読んだ本は、東京に置いてきたか
すでに失われていたのかもしれません。
前の手紙に「弟さんの書棚にあります」と書かれていたものを
安原が送り届けました。
孝子夫人は昭和9年春頃にも眼病を患い
同年9月には治癒していました。
ランボー翻訳「漸く半分」とは
着実な歩みというほかありません。
◇
「手紙88 2月16日 (はがき)」
御無沙汰しました お変りありませんか 此の間から大変寒くとてもやりきれませんでした 23日前ひばりを聞きました これからはもう暖かくなることでしょう 祖母は3日死去しました 葬式と重なって風邪ひきがちの中に2人も出来て困りました 葬式がすんでから僕も2日ばかり発熱臥床しました
シェークスピア全集を片っ端から読んでいます 面白いですね 有名なものでほんとに面白いものがあればあるもんです
翻訳はあともう3分の1です 早くやって上京したいです 女房眼病再発で都合によれば今度もまた一人で上京します どっちにしても4月に這入りますでしょう 伊藤さんからはそのご何たることもないのみか返事を怠ってすまぬすまぬとだけのたよりがありました なんともかんとも云えたことじゃありません
末筆ながら御自愛の程祈上げます さよなら
◇
祖母とあるのは、養祖母コマのこと。
今度の帰郷初日に、長男文也と初対面した足で見舞いました。
カトリックでした。
教会葬のあと自宅で仏式葬が行われました。
(「新全集」より。)
ランボー翻訳は「あともう3分の1」。
順調です。
「伊藤さん」は建設社から文圃堂へ移った編集者で
やがて頓挫することになる「ランボオ全集」の経緯や
「山羊の歌」や「宮沢賢治全集」の刊行についても
営業から制作まで並々ならぬ関与があった人物です。
その人から「すまぬすまぬとだけのたよりがありました」というのですから
先行き不安が残ったのでしょうか
まだそこまでは意識されていなかったでしょうか。
◇
「手紙89 3月2日(はがき)」
御無沙汰致ました 其の後お変りもございませんか 小生もはやすっかり退屈致しました なるべく早く仕事して 今月末までには上京したいものと思って居ります お訊ねの「宮沢賢治研究」(月刊)まだ出ませんが出たらお送りしましょう 但し小生のものは駄目な上に祖母の危篤と締切がカチ合いましたので23枚しか書けませんでした
其の内 御自愛祈上ます 怱々
◇
前年12月のはじめに帰郷したのですから
はや4か月が過ぎようとしています。
「田舎暮らし」が退屈なことは
都会生活を一度味わった者なら誰でも知るところですが
その裏には
東京でもっとバリバリ仕事に励みたいという詩人の
強い希望があったからでもありましょう。
「山羊の歌」の売れ行きはどうか
反響はどうか
ランボー全集はどのようなイメージになるだろう
「紀元」「文学界」「歴程」「四季」などへ載せる詩や
「散文」も書かなければ
……
意欲に満ち
充実した日々でした。
◇
安原はしかし
これら山口から出された手紙の一つ一つにはコメントを付けず
(※返信しなかったということではありません。安原が中原中也に出した手紙は、一つも残っていないのです。)
昭和3年秋以来6年半に渡る詩人と私との交友にも今漸く転機が訪れた。
――とはじまる長めの総括文を書くのです。
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