若夫婦
ひとくちメモ その1
「若夫婦」Jeune ménageは
中原中也訳「ランボオ詩集」「飾画篇」の8番目にある詩です。
◇
この詩も
若夫婦とはいったい誰のことか、と
現実のモデルを探して
やれ、ベルレーヌと妻マチルドのことだ、とか
やれ、ベルレーヌとランボーのことだ、とかと
現実の中にモチーフを見つけ出そうとする研究が絶えないようですが
たとえ驚くべき相似形が見つかろうとも
「実証的アプローチ」は
止めたほうがよいというものです。
どうかお願いですから、鉛筆で下線を引いたり、あんまり考えすぎたりしないでくださ
い
――というのと同じ声で、
どうぞお願いですから、私の周囲にいる友人や知人たちにそっくりだなどと、しようも
ない想像をしないでください
――という、ランボーの声が聞えてくるではありませんか。
◇
部屋は濃い青空に向かって開かれている。
ところ狭しと文箱(ふばこ)や櫃(ひつ)!
外に面した壁にはおはぐろ花
そこに化け物の歯茎は震えている。
◇
「化け物の歯茎」とは
何でしょう?
よく読めば
「おはぐろ花」の一部であることが分かります。
おそらく
ウマノスズクサ科の蔓性(つるせい)の多年草。原野や土手などに生え、葉は心臓形で先がとがり、臭気がある。夏、緑紫色のらっぱ状の花を開く。実は球形で、熟すと基部から六つに裂け、馬につける鈴に似る。
――とウィキにありますから
俗にいう「ヘクソカズラ」のことか
もしくは、それに近い雑草のことで
その臭いを発する部分の形か
ほかの部分だかを
「化け物の歯茎」と訳したのでしょう。
だいたいの想像で
読み進めていきます。
◇
なんという、天才振りじゃないか、
この蕩尽(とうじん)、この無秩序は!
ドドメをくれるアフリカの魔女の好みもこんなものだか
部屋の隅々には鉛縁(なまりぶち)。
◇
桑の実は、熟れるとドス黒い赤になり
食べれば、
口の中、唇が真っ赤に染まる果実だから
ちょっと「危ない」感じで
アフリカの魔女が人を誘い込むのに使うといったような
故事でもあるのだろうか
鉛縁は、鉛でできた縁のある家具か
室内で使われた家具調度品の類だろうか
周辺を鉛で象(かたど)られた鏡あたりか。
ほかの何かの装飾品かもしれません。
このあたりも
だいたいのイメージで
読み進めます。
◇
すると、何人かの者が入ってくる、不平顔の名付け親らが、
色んな食器戸棚の上に光線の襞(ひだ)を投げながら、
そうして止まる! 若夫婦は失礼極まることに留守してる
というわけで、何にもはじまらない。
◇
ムコさんの、乗ぜられやすい残香(のこりが)が、部屋にとどまっている、
その不在中にも、ずっとこの部屋に。
意地の悪い水の精らも
ベッドの回りをうろつきまわっている。
◇
夜の微笑、新妻の微笑、おお! ハネームーンは
それらを摘むのだろう、
銅の色の、たくさんの帯になってあの空を満たすことであろう。
二人は「ネズミごっこ」もするでしょう。
◇
このあたりは
自然に
若夫婦のベッドタイムの描写と読めます。
ベッドの上で
ネズミのように動きまわるシーンを
上のほうから観察している眼差しが感じられます。
そして
最終連へ。
◇
――日が落ちて、銃を撃つときに出るような
きちがいじみた青い火が、出さえしなきゃあいいけどなあ。
――むしろ、純白で神聖なベツレヘムの景色が、
この若夫婦の部屋の窓の、あの青空を悩殺するのにかなわない!
◇
エンディングは
かなり意味津々としていますが
ベツレヘムをどう読むかで
ずいぶん色々な読みができそうです。
ひとくちメモ その2
「若夫婦」Jeune ménageは
ランボーのほかの作品と同じように
さまざまな読みが行われているようで
考えてみれば
それは当たり前といえば当たり前、
生誕して150年以上も経つ
古今東西稀(まれ)なる天才詩人の作品を
世界中の研究者がこぞって読み解いては
ユニークな鑑賞記録を残さないほうがおかしいのですから
その研究熱が退くことがあるわけもありません。
学問の対象にならないほうが
不自然なのですから
詩人はもとより
小説家、哲学の分野、音楽家、言語学者、演劇家……と
いまなお
ランボー熱に浮かされる学徒の群れは引きも切らず
ランボー学は世界各地に狂い咲くかのようであります。
◇
ランボーの詩・言葉が
「学」の対象にされがちなのこと自体が
よくわからない現象ですが
一つには
ランボーの詩の難解さに引きつけられて
その答えを見い出そうとする努力が
競争を生み
ランボー学のレース(競争)を生んでいるということがあります。
学問も
所詮、レースのようなものなのですね。
「若夫婦」も
このレースの材料になりやすい作品らしい。
◇
おはぐろ花
化物の歯茎
アフリカの魔女
鉛縁
意地悪な水の精
鼠ごっこ
ベツレヘム
……
中原中也がこのように訳した
ランボーの語彙は
それほど難解というものではなく
だからかえって
多様な解釈を招じ入れやすいことになるのですが
中原中也の工夫は
絞り込めば
「鼠ごっこ」の一語に行き当たります。
「おはぐろ花」も
よくぞ訳したという感じのボキャブラリーですが
日々「詩の切れ屑を探して」世界をふらついていた詩人のこと、
これくらいは
「薔薇の名前」の多彩さを知る
植物学者並みの素養というものでしょうから
目を瞠(みは)るというほどのことではないでしょう。
「アフリカの魔女」なら
「シバの女王」あたりがピンときますから
これも、それだけの類推ができるということで
歴史(非歴史=架空)の魔女を特定する必要もなく
これも深追いしなくて事足ります。
「水の精」も同じ、
ランボーによく現れる妖精(妖女)。
◇
となれば、
傑作は
「鼠ごっこ」です。
◇
「ネズミごっこ」は
すぐさま「イタチごっこ」を連想するように
「イタチごっこ、ネズミごっこ」とペアで使われるのが
昔の子供の遊びでした。
相手の手の甲をつねって
自分の手をその上にのせ
それをまた相手がつねり返す。
その繰り返しをずっと続けるのが
たわいもないながら
子供、いや!人間のもつ小さな悪意をも満足させる
面白いような
おかしいような
悲しいような遊びなのですが、
「鼬ごっこ」は転じて、
いつまでも同じことを繰り返すだけで、
ものごとに決着がつかないことの意味で使われるようになりました。
中原中也は
ここから
「イタチごっこ」ではなく
「ネズミごっこ」を採ったのです。
「鬼ごっこ」のイメージにも繋がり
若い夫婦の
ベッドタイムの「メタファー」として
ピタリと決まった感じがするではありませんか――。
◇
ここまでは
比較的分かりやすいのですが
「ベツレヘム」が出てきて
非キリスト教徒圏の感覚では
この詩が遠くなっていきそうになります。
◇
――日が暮れてから、銃を打つ時出るやうな
気狂ひじみた蒼い火が、出さへしなけれあいいがなあ。
――寧ろ、純白神聖なベツレヘムの景観が、
この若夫婦の部屋の窓の、あの空色を悩殺するに如かずである!
◇
この、最終連、とくに最終行を
どのように読んだらよいでしょうか。
聖なるベツレヘムよ!
若いカップルの部屋の
窓の外いっぱいに広がっている
あの空の深い青を
いっそ桃色に塗り替えてくれちまったらなあ!
なのか?
*
若夫婦
部屋は濃藍の空に向つて開かれてゐる。
所狭いまでに手文庫や櫃!
外面(そとも)の壁には一面のおはぐろ花
そこに化物の歯茎は顫へてゐる。
なんと、天才流儀ぢやないか、
この消費(つひえ)、この不秩序は!
桑の実呉れるアフリカ魔女の趣好もかくや
部屋の隅々には鉛縁(なまりぶち)。
と、数名の者が這入つて来る、不平面(づら)した名附親等が、
色んな食器戸棚の上に光線(ひかり)の襞を投げながら、
さて止る! 若夫婦は失礼千万にも留守してる
そこでと、何にもはじまらぬ。
聟殿は、乗ぜられやすい残臭を、とゞめてゐる、
その不在中、ずつとこの部屋中に。
意地悪な水の精等も
寝床をうろつきまはつてゐる。
夜(よ)の微笑、新妻(にひづま)の微笑、おゝ! 蜜月は
そのかずかずを摘むのであらう、
銅(あかがね)の、千の帯にてかの空を満たしもしよう。
さて二人は、鼠ごつこもするのであらう。
――日が暮れてから、銃を打つ時出るやうな
気狂ひじみた蒼い火が、出さへしなけれあいいがなあ。
――寧ろ、純白神聖なベツレヘムの景観が、
この若夫婦の部屋の窓の、あの空色を悩殺するに如かずである!
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。