中原中也の詩に現われる色の色々2
その1
「山羊の歌」をみるだけでも
24作品に「色」が現われています。
「山羊の歌」は44作品を収めた詩集ですから
5割以上に「色」が露出しているということになります。
文字として、言葉として現われた「色」だけで
このような状態なのです。
「雪」とか「曇天」とか
「夜」とか「森」とか
色は顕在しなくとも表現することが可能ですから
これらを含めれば
もっともっと多彩な「色の世界」が広がっているのかもしれません。
しかし、そこまで含めると
どんな詩も多彩ということが言えてしまいそうですから
詩の中に言葉として文字として現われた「色」だけを
見ていくことにします。
◇
ここまで見て
何か特徴的なことがあるかというと
色々なことがいえそうです。
◇
「サーカス」の
「茶色い戦争」と「白い灯」では
「茶色い」と「白い」の使い方は別のもののようです。
「戦争が茶色い」という言い方と「灯が白い」という言い方は
色が特定されるはずもない戦争を茶色いと表現したのに対し
灯が白い状態は現実上よくあることです。
「春の夜」の
「桃色」「砂の色」「蕃紅色(サフランいろ)」も
現実に存在する色をそのまま表現していますから
「サーカス」の「白」と同じです。
「朝の歌」の
「朱(あか)きいろ」「はなだ色」も同じ使い方ですが
「はなだ色」はめずらしい言い方。
「臨終」の「鈍色(にびいろ)」も
ややめずらしいボキャブラリーになります。
「秋の一日」の
「花崗岩のかなたの目の色」。
これはなかなか難解です。
詩全体の中でしか理解できません。
象徴化の詩法が使われています。
◇
「冬の雨の夜」の「密柑の色」
「凄じき黄昏」の「銀紙(ぎんがみ)色」
「夕照」の「慈愛の色」「金のいろ」
「宿酔」の「白っぽく銹(さ)びている)
「少年時」の「黝い」「朱色」「灰色」。
「盲目の秋」の「紅」
「わが喫煙」の「白」
「妹よ」の「黒」
「木蔭」の「青」
「心象」の「白」
これらもみんな象徴という技で使われています。
「木蔭」の「青」は
写実的な使い方とも言えますが
青は青である以上の意味合いを持っています。
◇
その2
「色」が言葉にされたとき
その詩の作り方によって
現実の色をそのまま叙述(写実)しようとしていたり
メタファーとして使ってみたり
象徴表現としたり
まさに色々です。
「色」は
詩から独立しているものでない以上
詩全体の中の「色」でしかないことは言うにおよびません。
◇
「みちこ」の「あおき浪」「磯白々と」は
詩全体が喩(メタファー)に仕立てられているなかで
叙述の色。
後半に出てくる「頸(うなじ)は虹」や「なみだぐましき金(きん)」は
叙述を一歩はみだしています。
「更くる夜」の「真っ黒い武蔵野の夜」は
字義通りの黒。
「秋」の「鈍い金色」も同じ。
「真鍮の光沢」は直喩。
「沼の水が澄んだ時かなんかのような色」も直喩の域内でしょう。
「修羅街輓歌」の「空は青く」も
まったくストレートな叙述です。
「雪の宵」の「赤い火の粉」も同じ。
「時こそ今は……」の「群青(ぐんじょう)」も同じ。
「羊の歌」の「密柑の色」もなんらのダブルミーニングを持ちません。
「憔悴」の「空は青いよ」もそのまんまの青です。
「虹」もそのまんまの虹。
◇
「山羊の歌」の「色」を見てきて
印象に残ったのは何ですか?
◇
茶色い戦争
はなだ色
花崗岩のかなたの目の色。
秋空は鈍色(にびいろ)
……
これくらいでしょうか。
「茶色い戦争」なんてのは
この1語で中原中也を思わせるほどの浸透力で
日本人の間に広がっています。
「サーカス」の中の1語であるにもかかわらず
サーカスよりも強いインパクトで
人々の頭の中に刻まれているといってよいほどに。
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