「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年6月2日
その1
また3か月近くが経過しました。
といっても
2人が3か月会わなかったとは到底いえることではなく
次の手紙で安原の元に残ったのが3か月後の消印のものということです。
「手紙75 6月2日 (封書)」(新全集は「141」)は
間隔が空いたからかやや長文になりました。
全文を読みます。
◇
今日は失礼しました あれから暫く歩いて、まだ時間があると思って荷物がありましたので一度家に帰り、直ぐ行ったのですが、2時35分でした それから30分待っていましたが、多分もう出かけられたことと思い、帰って来ました
メンチョウもうなんでもありませんが、一時は内心心配でした、もとからあった小さなおできにピックを貼りましたら、そのピックにバイキンがあったか、バイキンのいた上にピックを貼ったかです 顔がはれて、ボクレツ以上でした
酒をすっかりやめて、彼是(かれこれ)一ケ月になります 朝も割合早く起きます からだを丈夫にしなければサンサシオンが働かず、サンサシオンが生々していない限り人生に幸福はないのだとテッキリ感じましたので、ひとまず酒を全然とにもかくにもよしました
今「詩とその伝統」という感想を書いています 此のあとで、物のあわれがなかったら、この世にはどうにも仕方のない焦慮と、他にあればホクソエムことだけくらいだという、誰でも感じていながら、通念とはなっていないことを、書いてみたいと思っています
それを書いたら、一先ず安心出来そうです それからは近頃割合閑がたのしく過ごせますので、チットは身のある詩が書けだすかと思っています 書けても書けなくても 三四日前熱が大変出て夜中眠らなかった時 ひととき感性が大変生々しく、昔の気持を思い出し、その時は色んな夢が湧きましたし面白かったので、――神経を和やかにすることが一番いいと思ったのでした
どうもよく書けません 何れゆっくり書こうと思いますが
おまけに自分ばかり喋舌りましたが、実以て神経和やかの祈念で一杯で、他のことくすぐったいばかりな次第です
右御詫び旁々、近頃感想迄 怱々
6月2日 中也
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「行空き」を加え、「洋数字」に変えました。編者。)
◇
ボクレツは、朴烈。
瀬戸内寂聴の伝記小説「余白の春」は
朝鮮人の革命家・朴烈の妻・金子文子の凄絶な生涯をたどった作品ですが
その朴烈のこと。
1925年、社会を騒然とさせた「朴烈事件」の中心人物です。
「新全集」は
朴烈は大正12年9月の関東大震災のとき、妻の金子文子とともに検束され、大正15年3月、天皇暗殺計画を企てたとして死刑判決を受けた。その後、無期懲役に減刑されたが、朴烈は減刑を拒否。金子は同年7月、獄中で自殺。金子の自殺直後、2人が予審廷で抱擁し合っている写真が公開されるという、いわゆる「怪写真事件」が起こった。
――などと、事件の概要を記しています。
◇
安原は
「ボクレツ以上」これより少し前のこと、朝鮮人のボクレツ(朴烈)氏が不敬罪で捕えられ、きびしい取調べを受けたが、在監中に一裁判官の特別なはからいで彼の奥さんが独房に彼をたずねたことがあった。このことがその時奥さんを腰に腰かけさせた写真とともに新聞にとりあげられ大騒ぎになった。その写真では、ゴーモンでもされたのか朴さんの顔は見るも無惨にはれあがっていたが、ひどい顔のことをボクレツみたいとか以上とかいうようになった。
――とコメントしています。
◇
明治の「幸徳事件」とならぶ「大逆事件」で
これら社会主義者、無政府主義者などへの国家権力の弾圧は
近くは小林多喜二の拷問死や
プロレタリア作家の相次ぐ検挙など
文学の領域に及んでいる時代であることもあって
詩人も安原も無関心ではいられなかったはずです。
「文学界」の「政治と文学に関する座談会」が発表されたのは
この年、昭和9年の9月号でした。
小林秀雄はこの座談会を企画した編集者の位置にあり
発言者の一人でもありました。
◇
朴烈の「顔面」に焦点を当てた「社会ダネ」を
ラジオまたは新聞、週刊誌のニュースで知ったからでしょうか
詩人は自分がかかった「面疔(めんちょう)」の進行具合にたとえるまでにとどめました。
◇
その2
「手紙75 6月2日 (封書)」(新全集は「141」)は
メンチョウにかかって
顔の形がひどく変形してしまったことにはじまり
酒を飲むのをやめて早起きの日課を送っている報告で書き起こされますが
何か大事なことを書こうとして
書きはじめたにもかかわらず
「どうもよく書けません」と
うまく書けなかった気持ちを書いた手紙になりました。
自分が書いていることを
うまく書けていないと自ら自覚しても
一度書いた文を反古(ほご)にせず
そのまま投函した手紙ということになりますが
うまく書けなかったと詩人が認識するゆえにか
「未完成のリアル」みたいなものがあり
逆に詩人が伝えようとした重大なものが伝わってくる
そんな手紙です。
◇
詩人は
メンチョウによる顔面の腫(は)れを伝えようとしたのではなく
今、書きたいことが何であるかを書きたかったのでしょう。
自分の中では
おおよその構想ができ
核心となる部分もおおよそまとまっているものなのですが
それを安原への手紙の中で簡明に伝えられなかったもの
――とは、すでにこの手紙の中に書かれたことでした。
それはいったい何だったのでしょうか?
◇
メンチョウ以外のことが書かれたところを
丹念に読んでみると
① からだを丈夫にしなければサンサシオンが働かず、サンサシオンが生々していない限り人生に幸福はない
② 物のあわれがなかったら、この世にはどうにも仕方のない焦慮と、他にあればホクソエムことだけくらいだという、誰でも感じていながら、通念とはなっていないことを、書いてみたい
③ それを書いたら、一先ず安心出来そうです それからは近頃割合閑がたのしく過ごせますので、チットは身のある詩が書けだすかと思っています
④ 書けても書けなくても 三四日前熱が大変出て夜中眠らなかった時 ひととき感性が大変生々しく、昔の気持を思い出し、その時は色んな夢が湧きましたし面白かったので、――神経を和やかにすることが一番いいと思ったのでした
――という、四つのことが書かれているのが分かりますが
④で、文意が伝わりにくい方向へ流れてしまったために、
「どうもよく書けません」と作文の失敗に気づいたのですから
これは考慮外のこととすると
この手紙で安原に伝えたかったのは
「書いてみたい」とある②になるでしょう。
◇
「詩と其の伝統」で
「もののあわれ」をキーワードにして詩人が書こうとしていたのは
物のあわれがなかったら、
この世にはどうにも仕方のない焦慮と、
他にあればホクソエムことだけくらい
――ということで、それは
誰でも感じていながら、
通念とはなっていないこと
――であるという主張のようです。
◇
詩を「大衆の通念の中に位置させる」という
詩の「社会化」の主張は
中原中也の詩活動のかなり大きなモチーフです。
その理論化の試みを
実作ではなく
論文で行おうとしていたことを
詩人は安原にうまく伝え切れなかったと、この手紙で書いたのです。
◇
「詩と其の伝統」は
「文学界」の1934年(昭和9年)7月号に発表されました。
中の一部を引いておきます。
文末に(一九三四、六、三)と制作日が記されてあります。
◇
詩というものが、恰度帽子と云えば中折も鳥打もあるのに、帽子と聞くが早いか「ああいうもの」とハッキリ分るように分らない限り、詩は世間に喜ばれるも、喜ばれないも不振も隆盛もないものである。扨私は、明治以来詩人がいなかったというのでは断じてない。まだ詩というものが、大衆の通念の中に位置する程にはなっていないと云うのである。大衆の通念の中に位置しない限り、算出される詩の非凡と平凡とを問わず、詩の用途というものはなく、あるとすれば何か他の物の代用としての用途をしかしていないと云えるのである。
(「新編中原中也全集」第4巻より。「新かな」に改めました。編者。)
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