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中原中也の詩に出てくる「人名・地名」16

中原中也の詩のうち
「生前発表詩篇」「未発表詩篇」に現われる海外の「人名」を見ていますが
【キリスト】【クリスト】【釈迦(しゃか)】――の宗教者は説明するのがとてもむずかしい。
その理由は、わかっているようでわかっていないからです。
 
あえて言うとすれば、【釈迦(しゃか)】は、仏教の開祖で紀元前460年代に生まれ紀元前380年代に亡くなった人。生没年には異説があり、100年ほどの差があります。俗に「ゴータマ・シッダッタ」。漢字で「悉達多」と表わすこともあります。【キリスト】【クリスト】は、言い方が異なるだけで、「イエス・キリスト」のこと。「イエズス・キリストス」「イエズス・クリストス」と呼ぶこともあります。「イエス」「キリスト」とそれぞれ単独で言う場合もあり、「イエス・キリスト」と言う場合、「イエスであるキリスト」「キリストであるイエス」というような意味合いになり、「イエス」も「キリスト」も「=」の関係です。紀元前4年頃に生まれ 紀元後28年頃に亡くなったとされています。「釈迦」は「キリスト」のおよそ400年前を生きた人と考えればよいのではないでしょうか。
 
 
【バルザック】【ミレー】【ナポレオン】【ランボオ】――のうち
【ナポレオン】のほかは芸術家ですから
ここで簡単にひもといておきましょう。
 
 
【バルザック】 
バルザックは、1799年に生まれ1850年に死んだフランスの小説家です。昭和5年(1930年)、5月29日付けで安原喜弘に宛てた葉書に「バルザックを久し振りに読んだ。面白い!ドストエフスキーなぞよりよっぽどいい。」と書いています。(バルザック)という無題のダダ詩は「ノート1924」にあるものですから、京都時代の制作で、この葉書よりも7年ほど前のものです。「文学に耽りて落第」した青年詩人が、その詩的履歴の立ち上がりの時期にバルザックを読み、7年後の東京生活でも「面白い!」と感想を洩らしているわけです。ダダ詩(バルザック)は晦渋(かいじゅう)で難解ですが、バルザックを褒(ほ)めているようにはみえません。「収縮」「胃病」「明治時代」「病気」「退屈」「嫌で嫌で」などと否定的な表現が連続しています。京都から東京へと活動の拠点を移したこの間に、富永太郎、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平といった面々――彼らはみなフランス文学に関心を抱いていました――との出会いがありました。中原中也は、この出会いの中で、ランボーやベルレーヌや……バルザックをも読みました。
 
(バルザック)
 
バルザック
バルザック
腹の皮が収縮する
胃病は明治時代の病気(モノ)らしい
そんな退屈は嫌で嫌で
 
悟ったって昴奮(こうふん)するさ
同時性が実在してたまるものか
 
空をみて
涙と仁丹(じんたん)
雨がまた降って来る
 
 
【ミレー】は、ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)のこと。1814年10月4日生まれで1875年1月20日死亡ですから、バルザックより15年前に生まれ、同じ年に亡くなった画家。同時代を生きたといってもよいでしょう。「種まく人」「晩鐘」「落穂拾い」などで有名で、テオドール・ルソー、コローらとともに農村風景や農民の風俗を多く描いたために「バルビゾン派」と称されています。パリ南方・フォンテーヌブローの森の一角にバルビゾンという村があり、この村に住んで、彼らは絵を描きました。
 
ミレーの登場する詩をみておきましょう。
 
 
さまざまな人
 
抑制と、突発の間をいったりきたり、
彼は人にも自分にも甘えているのです。
 
    ※
 
彼の鼻は、どちらに向いているのか分らない、
真面目のようで、嘲(あざけ)ってるようで。
 
    ※
 
彼は幼時より変人とされました、
彼が馬鹿だと見られさえしたら天才でしたろうに。
 
    ※
 
打返した綿のようになごやかな男、
ミレーの絵をみて、涎(よだれ)を垂らしていました。
 
    ※
 
ソーダ硝子(ガラス)のような眼と唇とを持つ男、
彼が考える時、空をみました。
訪ねてゆくと、よくベンチに腰掛けていました。
落葉が来ると、
足を引込めました。
彼は発狂し、モットオを熱弁し、
死んでゆきました。
 
 
【ランボオ】は別項で案内することにして、【ナポレオン】について簡単に。ナポレオン・ボナパルトは、1769年に生まれ1821年に亡くなっていますから、およそ50年の生涯でした。フランス革命で混乱した国内政治を収め、1804年には皇帝の地位に着きます。軍事独裁政権によって「ナポレオン戦争」を遂行しヨーロッパ各国を支配下に収めていきますが、1808年のスペイン独立戦争あたりからかげりを見せはじめ、1813年10月のライプチヒの戦いでは対仏同盟軍に破れ、1814年首都パリが陥落、エルバ島へ追放されます。その後、ブルボン王朝による王政復古があり、1815年、ナポレオンはエルバ島から脱出して復活しましたが(「百日天下」)、ワーテルローの戦いでイギリス・プロシアの連合軍に破れ、セント・ヘレナ島へ幽閉されました。この南太平洋の孤島で1821年に死亡します。
 
中原中也は「脱毛の秋 Etudes」の最終連で、
 
私は親も兄弟もしらないといった 
ナポレオンの気持がよく分る
 
ナポレオンは泣いたのだ 
泣いても泣いても泣ききれなかったから 
なんでもいい泣かないことにしたんだろう
 
人の世の喜びを離れ、
縁台の上に筵(むしろ)を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
反射運動の断続のほか、
私に自由は見出だされなかった。
 
――とナポレオンを登場させます。
 
ナポレオンの伝記を何かで読んだのでしょう、コルシカ島で12人の兄弟姉妹(4人は夭逝)の4番目に生まれ育った英雄の幼時(少年時代)を思い、「ナポレオンは泣いたのだ 泣いても泣いても泣ききれなかったから なんでもいい泣かないことにしたんだろう」と歌ったのは、「三歳の記憶」で「あーあほんとに怖かった なんだか不思議に怖かった、それでわたしはひとしきり ひと泣き泣いて やったんだ。」に通じています。ナポレオンの「世界制覇の野望」は、親兄弟なんて眼中になかったひたむきさですし、そのように書かれた伝記に反応したかのように、「ナポレオンの気持がよく分る」と詩に表わしたのではないでしょうか。

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