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きらきら「初期詩篇」の世界/12「宿酔」

その1

「初期詩篇」は
「ためいき」の後に
「春の思い出」「秋の夜空」「宿酔」の3作を配置して閉じます。

これら3作は
まるで「ためいき」の反発から置かれたような作品です。

「秋の夜空」は
近景から遠景への視点移動であるために
事態をしばし把握しかねたその後に
星々(や月)の輝き競う様子が擬人化され
夫人たちの宴として幻想された世界であることを了解しました。

そのうえ遠近が倒置されていたようで
「理屈」でとらえようとすると分かりにくかったのですが
冒頭の1行のセリフに誘(いざな)われ
いきなり宴の中に立たされるので
すんなりと詩世界へなじむことができました。

これはマジックにあったようなことでした。

「宿酔」も
「秋の夜空」のマジックがきいているかのような詩です。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

4行×3連の構成。
第1連と第3連は全く同一の詩句、ルフランですから
全体はきわめてシンプルな作りです。

目前に見ている現実の風景(空)が
「喩(ゆ)」によって
一瞬にして天使のバスケットボールに変じるのは
「秋の夜空」が夫人たちの宴に変じるのと似ていますが
こちらの作りは単純です。

「喩」が見事に決まったために
こちらも詩の中に入るのに
抵抗感はまったくありません。

この詩もタイトルが
利いているのです。

「ふつかよい」か「しゅくすい」か――。

遅い朝を起き出した詩人が見ているのは
鈍い日。

快晴でもなく
曇天でもなく
ぼんやりと明るい空で
風だけが元気に活動しています。

昨夜の酒が残っていて
景色を観賞したり
もの思いにふけったりする以前の状態をとらえました。

風が
あたかも天使のバスケットボールに見えたのです。

その2

「サーカス」の空中ブランコから
「秋の夜空」の夫人たちの宴、影祭りへ……。
こちらが夜空に浮かびあがるパノラマならば

「朝の歌」の「ひろごりてたいらかの空」は
きえてゆくうつくしき夢。

「宿酔」の朝は
鈍い日に吹き渡る風の中に
千の天使のバスケットボールを詩人に幻視させます。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「宿酔」に「初期詩篇」の掉尾(とうび)を飾らせたわけが
すこし見えてきたような気がします。

ここで、初期詩篇22篇を
歌っている内容の「時間帯」だけで分類してみましょう。
詩集の順序に沿って見てみます。

夕方、落日の歌なら
「春の日の夕暮」や「黄昏」「凄じき黄昏」「夕照」「春の思い出」

夜の歌なら
「月」「サーカス」「春の夜」「都会の夏の夜」「深夜の思い」「冬の雨の夜」「ためいき」「秋の夜空」

昼の歌なら
「帰郷」「逝く夏の歌」「夏の日の歌」

朝の歌なら
「朝の歌」「臨終」「秋の一日」「悲しき朝」「港市の秋」「宿酔」

――となるでしょうか。

この上に春夏秋冬が歌い分けられているのです。

それぞれの詩が扱う時間帯にはもちろん「幅」があります。
「帰郷」は朝か昼か夕方か判定しがたい作品です。
「ためいき」は夜から夜明け、翌日の昼までを歌います。

朝であれ昼であれ夕方であれ夜であれ
中也の詩には「空」が頻繁に現われます。

「宿酔」は
メッセージを強く打ち出した詩ではありません。

A―B―Aという「2部形式」ですから
第1連、第3連はまったく同一の詩行の繰り返し(ルフラン)で
ここには
鈍い日の照る「遅い朝」を迎えた詩人が
風の中に天使がバスケットボールをしているのを見るという
あり得ないイメージが「描写」されるだけです。

ここにメッセージはありません。

第2連は不思議な内容です。
目をつむると
むしろ「現実」が見えてきます。

ここは目をつむらなくとも見えるはずの景色なのに
目をつむるのです。

不用になったストーヴが/白っぽく銹(さ)びている。
――という景色は
詩人のいる部屋に見えるはずにもかかわらず。

ここにも
たくまれた「転倒」の技があり
メッセージはここに潜んでいます。

 

その3

千の天使が/バスケットボールする。
――というのは、「喩」ですから
空で実際に天使たちがバスケットボールしているのが見えたわけではありません。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

二日酔いの頭が「めまい」を覚えて
俗に、目がチカチカするといい
医学的には、
眼精疲労とか偏頭痛とか閃輝暗点(せんきあんてん)とかという状態になって
それをバスケットボールが弾んでいる情景に喩えたのでしょう。

それをジョーク気味に使ったものに過ぎず
詩的表現などと詩人は考えてもいなかったはずです。

それよりも
朝、鈍(にぶ)い日が照ってて/風がある。
――という2行の
何の変哲もないような言葉使い!

照ってて
――という舌足らずの意図的な使用!

風がある
――だけで、詩になってしまう!

この平凡な詩行が
「天使たちのバスケットボール」を際立たせています。

第2連の
目をつむると見えるかのようなストーブも
このマジックのような措辞(そじ)が生み出すものです。

部屋の片隅に
もう不用になったストーブが/白っぽく銹びている。
――のを、詩人は瞑目(めいもく)して見ます。

そこに厳然としてあるはずのストーブを
目をつむって見たかのような作りです。

かつて「朝の歌」で歌った場面と「宿酔」の場面は
似ているようで似ていません。

それは
「はなだ色の空」と「鈍い日が照ってる空」の違いばかりではないようです。

 

その4

「朝の歌」の喪失感や倦怠感と同じようなものが
「宿酔」にも流れていることは確かですが
同じような場面を歌って
孤独感・疎外感がくっきりしたのは「宿酔」のほうで
「椅子を失くした」と歌った「港市の秋」に近くなっています。

「朝の歌」は「文語ソネット」
「宿酔」は「口語2部形式」というのも決定的な違いです。

「宿酔」も定型への意識は崩していないものの
「照っていて」としないで「照ってて」とし
(「バスケットボールをする」としないで「バスケットボールする」とし)
行儀正しい言葉を排して会話体を選びましたし
「風がある」とぶっきらぼうなほどシンプルに仕立てたところなどに
「朝の歌」から離れようとする意志が感じられます。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「宿酔」というタイトルも
「しゅくすい」と音読みにするよりは
「ふつかよい」と日常使われている「音(おん)」で読ませたいはずですし
「ふつかよい」の方が
若々しく強く俗っぽいし
……

「初期詩篇」が
「春の思い出」
「秋の夜空」
「宿酔」の3作品で閉じられた意図も浮かび上がってきます。

「宿酔」は
「山羊の歌」の全ての詩の中で
「羊の歌」と「いのちの声」とともに
草稿と初出誌がない作品です。
(「新全集」詩Ⅰ・解題篇)

3作品は、この詩集が編まれる中で作られたことを示すものです。

「初期詩篇」の掉尾(とうび)を飾る作品として
「宿酔」が制作され配置されたということは
「羊の歌」「いのちの声」が
「山羊の歌」の最終詩として制作され配置されたことと
パラレルな位置にある(意味がある)ということになります。

詩人は後年(1936年、昭和11年)、「我が詩観」を書き
創作履歴「詩的履歴書」を添えています。

中に「朝の歌」について書いた一節があり、

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最
初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数
がかかるのではとガッカリす。

――と記しているのはよく知られたことです。

 

「山羊の歌」の編集時点から4年を経過しているときの記述ですが
この記述に「朝の歌」への評価への違和感が表明されていると感じられてなりません。

 

次項 ギロギロする目が見た/「少年時」へ続く

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