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「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・8「サーカス」

その1
 
「サーカス」は「生活者」(昭和4年10月号)に発表されたときには
「無題」というタイトルでした。
 
「無題」はタイトルをつけていない未完成の作品ではなく
完成作です。
 
やがて「サーカス」と改題されたのは
「山羊の歌」収録のときでした。
 
 
「初期詩篇」では3番目にあり
かなり早い時期に作られたことが想像できますが
制作日時を断言できるものではなく
「山羊の歌」の編集方針にしたがって
詩集の冒頭部に配置されたことだけは確かなことです。
 
「春の日の夕暮」「月」「サーカス」……と並べたのは
どのような方針だったのでしょうか。
「未成熟」が意識されていたのでしょうか。
 
 
サーカス
 
幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました
 
幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました
 
幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り
 
サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
 
頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
  汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 
それの近くの白い灯(ひ)が
  安値(やす)いリボンと息を吐(は)き
 
観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 
      屋外は真ッ闇(くら) 闇の闇
      夜は劫々と更けまする
      落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 
 
一読して
行取り、連構成など自由な形ですし
内容もリアルとファンタジーが混ざり幻想的です。
ダダっぽさというよりシュールな感じがあり実験的です。
 
言葉の使い方に宮沢賢治や富永太郎らの影響もあることなどから
京都時代の制作であることも否定できませんが
ダダの影響をはなれ
新しい詩境を探っていた時期の作品であるならば
上京後の制作と考えるのが自然でしょう。
 
 
独創的なオノマトペ「ゆあーんゆよーん」
そのルフラン(繰り返し)
「幾時代かがありまして」のルフランもあります。
 
ソネットなどの定型を志向していない
起承転結の「単調さ」がない
夢か現(うつつ)か、どちらにも受け取れるシュールな映像
「一と殷盛り」「屋蓋(やね)」など高踏的な言語使用
「真ッ闇(くら) 闇の闇」などは宮沢賢治の影響といわれています。
 
「サーカス」「ブランコ」というカタカナ語の鮮やかさ
音(オノマトペ)と映像(ブランコ)の融合
色彩の統制
遠大な時間が「今」に流れ込む感覚
……
 
つぶさに見てみると
色々と「進取的先験的な」試みが行われています。
ほかにも幾つか数え上げることができるでしょう。
 
破綻があるわけではなく
くっきりとしたイメージが結ばれて
現実的でもあり幻想的でもある詩世界が広がっています。
 
 
「サーカス」は
詩人自らが好んで朗読し
近くにいた友人らに聞かせたり
ラジオの前の聴衆にも聞かせたりしたことで知られる詩です。
 
 
その2
 
「月」に「胸に残った戦車の地音」
「サーカス」に「茶色い戦争」「落下傘奴」
「朝の歌」に「鄙びたる軍楽の憶い」
……と戦争が歌われています。
 
そうとなれば
「春の日の夕暮」に「馬嘶くか」や「荷馬車の車輪」とあり
「春の夜」に「夢の裡なる隊商」とあり
「臨終」に「黒馬の瞳のひかり」とあるのも
戦争の匂いがしないでもなくなってきますが
そのように拡大解釈しなくても
「月」「サーカス」「朝の歌」には戦争が影を落としています。
前面に出ていなかったとしても。
 
 
「サーカス」は「茶色い戦争」と
ズバリ「戦争」という言葉を「詩語」に使い
それをかつてあった戦争という意味で使い起こし
最後には目の前にある「ブランコ=落下傘=戦争」を暗示するかのように使います。
 
もちろん、戦争を文字通りに取ることもないのですが
戦争といったからには戦争で
戦争以外にない戦争のことです。
茶色であろうが黄色であろうが赤色であろうが
戦争は戦争です。
 
 
中原中也は
来し方(こしかた)を振り返って戦争に喩(たと)え
その来し方は現在に至って今夜の酒=一と殷盛りとなって
サーカスを幻想するのですが
幻想の中にまた戦争が顔を出すのです。
 
そういう詩です。
 
 
「一と殷盛り」を
酒宴としなくてもいいでしょう。
 
深夜の思索が高揚し
盛り上がったハイになった状態を
「殷賑(いんしん)を極める」の「殷」から取って
「一と殷盛り(ひとさかり)」としたのです。
 
 
このひとさかりの幻想の戦争は
ゆあーんゆあーんと揺れるブランコに乗って現われ
サーカス小屋の中で
ゆあーんゆあーんと揺れ
観客も揺れて
小屋全体が揺れている状態です。
 
それが小屋の外へ
ゴーゴーと更ける真っ暗闇へと突破し
いつしか揺れるのは落下傘です。
 
落下傘のノスタルジーが揺れるのです
ゆあーんゆあーん、と。
 
 
幾時代かがありまして――と
ナレーションのようにはじまった詩が
最終連は「字下げ」の形になって
「夜は劫々と更けまする」と
再びナレーションに戻った恰好で終わります。
 
これはまるでランボーのドラマツルギーです。
 
 
その3
 
「幾時代かがありまして」とはじまり
「夜は劫々と更けまする」で閉じる
二つのナレーションの間に語られるドラマ――。
 
そのナレーションの眼差しには
幾分か道化(どうけ)の気分が混ざるのは
ドラマがサーカスであるからです。
 
ブランコは「見えるともない」ものですが
それを案内しながら演じるのは道化ですし
道化を演じるのは詩人です。
詩人はこの詩の作者でもあります。
 
 
ドラマツルギーというほど大げさなものではなく
作者=詩人がドラマツルギーを意識していたかどうかも不明ですが
この詩がモノローグの要素を孕みながら
「見えるともない」空中ブランコを見ている観客の眼差しをもち
その観客を見渡している眼差しをももち
サーカス小屋の外の暗闇をも眺める現在の眼差しは
幾時代を経た後にやってきたものです。
 
詩(人)の眼差しは遍在し
壮大なスケールというほかにありません。
 
 
時間、空間ともにスケールが大きいのですが
スケールを大きくしている仕掛けの一つが
第3連、
幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り
――の「一と殷盛り」です。
 
「此処での一と殷盛り」の中に
空中ブランコが見えるともなく見えるのです。
 
見えるともなく見える、というのは
明らかに実際にサーカスを見ているのではなく
過去の経験を基にした「幻想」の類(たぐい)です。
 
幻想ですから
スケールは大きくなります。
幻想に小さいものはありません。
 
 
にもかかわらず
いつしか今度は
 
頭倒(あたまさか)さに手を垂れ
汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)
近くの白い灯(ひ)
観客様はみな鰯
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)
――などとリアルなサーカス(小屋)の描写に転じ
転じたところで「ゆあーんゆよーん」と
もののみごとにブランコが揺れ
サーカス小屋が揺れ
観客が揺れ
詩人の心が揺れているようなオノマトペです。
 
 
この詩は最終連を「字下げ」にして
再びサーカス小屋の外の現実(リアル)にいる詩人が歌うのですが
そこは真っ暗な闇夜です。
 
サーカスの賑わいは微塵(みじん)もなく
ゆあーんゆよーんと
落下傘(のノスタルジー)が揺れ落ちています。
 
詩人がいるここは現実です。
見えているのは空中ブランコではなく落下傘で
この落下傘が茶色い戦争と遠く響き合います。

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