「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・8「サーカス」
その1
「サーカス」は「生活者」(昭和4年10月号)に発表されたときには
「無題」というタイトルでした。
「無題」はタイトルをつけていない未完成の作品ではなく
完成作です。
やがて「サーカス」と改題されたのは
「山羊の歌」収録のときでした。
◇
「初期詩篇」では3番目にあり
かなり早い時期に作られたことが想像できますが
制作日時を断言できるものではなく
「山羊の歌」の編集方針にしたがって
詩集の冒頭部に配置されたことだけは確かなことです。
「春の日の夕暮」「月」「サーカス」……と並べたのは
どのような方針だったのでしょうか。
「未成熟」が意識されていたのでしょうか。
◇
サーカス
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁(はり)
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯(ひ)が
安値(やす)いリボンと息を吐(は)き
観客様はみな鰯(いわし)
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外は真ッ闇(くら) 闇の闇
夜は劫々と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
◇
一読して
行取り、連構成など自由な形ですし
内容もリアルとファンタジーが混ざり幻想的です。
ダダっぽさというよりシュールな感じがあり実験的です。
言葉の使い方に宮沢賢治や富永太郎らの影響もあることなどから
京都時代の制作であることも否定できませんが
ダダの影響をはなれ
新しい詩境を探っていた時期の作品であるならば
上京後の制作と考えるのが自然でしょう。
◇
独創的なオノマトペ「ゆあーんゆよーん」
そのルフラン(繰り返し)
「幾時代かがありまして」のルフランもあります。
ソネットなどの定型を志向していない
起承転結の「単調さ」がない
夢か現(うつつ)か、どちらにも受け取れるシュールな映像
「一と殷盛り」「屋蓋(やね)」など高踏的な言語使用
「真ッ闇(くら) 闇の闇」などは宮沢賢治の影響といわれています。
「サーカス」「ブランコ」というカタカナ語の鮮やかさ
音(オノマトペ)と映像(ブランコ)の融合
色彩の統制
遠大な時間が「今」に流れ込む感覚
……
つぶさに見てみると
色々と「進取的先験的な」試みが行われています。
ほかにも幾つか数え上げることができるでしょう。
破綻があるわけではなく
くっきりとしたイメージが結ばれて
現実的でもあり幻想的でもある詩世界が広がっています。
◇
「サーカス」は
詩人自らが好んで朗読し
近くにいた友人らに聞かせたり
ラジオの前の聴衆にも聞かせたりしたことで知られる詩です。
◇
その2
「月」に「胸に残った戦車の地音」
「サーカス」に「茶色い戦争」「落下傘奴」
「朝の歌」に「鄙びたる軍楽の憶い」
……と戦争が歌われています。
そうとなれば
「春の日の夕暮」に「馬嘶くか」や「荷馬車の車輪」とあり
「春の夜」に「夢の裡なる隊商」とあり
「臨終」に「黒馬の瞳のひかり」とあるのも
戦争の匂いがしないでもなくなってきますが
そのように拡大解釈しなくても
「月」「サーカス」「朝の歌」には戦争が影を落としています。
前面に出ていなかったとしても。
◇
「サーカス」は「茶色い戦争」と
ズバリ「戦争」という言葉を「詩語」に使い
それをかつてあった戦争という意味で使い起こし
最後には目の前にある「ブランコ=落下傘=戦争」を暗示するかのように使います。
もちろん、戦争を文字通りに取ることもないのですが
戦争といったからには戦争で
戦争以外にない戦争のことです。
茶色であろうが黄色であろうが赤色であろうが
戦争は戦争です。
◇
中原中也は
来し方(こしかた)を振り返って戦争に喩(たと)え
その来し方は現在に至って今夜の酒=一と殷盛りとなって
サーカスを幻想するのですが
幻想の中にまた戦争が顔を出すのです。
そういう詩です。
◇
「一と殷盛り」を
酒宴としなくてもいいでしょう。
深夜の思索が高揚し
盛り上がったハイになった状態を
「殷賑(いんしん)を極める」の「殷」から取って
「一と殷盛り(ひとさかり)」としたのです。
◇
このひとさかりの幻想の戦争は
ゆあーんゆあーんと揺れるブランコに乗って現われ
サーカス小屋の中で
ゆあーんゆあーんと揺れ
観客も揺れて
小屋全体が揺れている状態です。
それが小屋の外へ
ゴーゴーと更ける真っ暗闇へと突破し
いつしか揺れるのは落下傘です。
落下傘のノスタルジーが揺れるのです
ゆあーんゆあーん、と。
◇
幾時代かがありまして――と
ナレーションのようにはじまった詩が
最終連は「字下げ」の形になって
「夜は劫々と更けまする」と
再びナレーションに戻った恰好で終わります。
これはまるでランボーのドラマツルギーです。
◇
その3
「幾時代かがありまして」とはじまり
「夜は劫々と更けまする」で閉じる
二つのナレーションの間に語られるドラマ――。
そのナレーションの眼差しには
幾分か道化(どうけ)の気分が混ざるのは
ドラマがサーカスであるからです。
ブランコは「見えるともない」ものですが
それを案内しながら演じるのは道化ですし
道化を演じるのは詩人です。
詩人はこの詩の作者でもあります。
◇
ドラマツルギーというほど大げさなものではなく
作者=詩人がドラマツルギーを意識していたかどうかも不明ですが
この詩がモノローグの要素を孕みながら
「見えるともない」空中ブランコを見ている観客の眼差しをもち
その観客を見渡している眼差しをももち
サーカス小屋の外の暗闇をも眺める現在の眼差しは
幾時代を経た後にやってきたものです。
詩(人)の眼差しは遍在し
壮大なスケールというほかにありません。
◇
時間、空間ともにスケールが大きいのですが
スケールを大きくしている仕掛けの一つが
第3連、
幾時代かがありまして
今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛り
――の「一と殷盛り」です。
「此処での一と殷盛り」の中に
空中ブランコが見えるともなく見えるのです。
見えるともなく見える、というのは
明らかに実際にサーカスを見ているのではなく
過去の経験を基にした「幻想」の類(たぐい)です。
幻想ですから
スケールは大きくなります。
幻想に小さいものはありません。
◇
にもかかわらず
いつしか今度は
頭倒(あたまさか)さに手を垂れ
汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)
近くの白い灯(ひ)
観客様はみな鰯
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)
――などとリアルなサーカス(小屋)の描写に転じ
転じたところで「ゆあーんゆよーん」と
もののみごとにブランコが揺れ
サーカス小屋が揺れ
観客が揺れ
詩人の心が揺れているようなオノマトペです。
◇
この詩は最終連を「字下げ」にして
再びサーカス小屋の外の現実(リアル)にいる詩人が歌うのですが
そこは真っ暗な闇夜です。
サーカスの賑わいは微塵(みじん)もなく
ゆあーんゆよーんと
落下傘(のノスタルジー)が揺れ落ちています。
詩人がいるここは現実です。
見えているのは空中ブランコではなく落下傘で
この落下傘が茶色い戦争と遠く響き合います。
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