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中原中也の詩に出てくる「人名・地名」 9

「人名」のほうに分類した【小竹の女主人(ばばあ)】【小竹】は「地名」です。
昭和初期、東京・芝浦にあった待合の名前で
「バー山本」とか「居酒屋雪子」などの「山本」「雪子」と同じです。
 
小林秀雄をはじめとする「文学界」編集者や寄稿者らが常用する中に
中原中也の名もありました。
 
その「女主人」を「おかみ」ではなく
「ばばあ」と親しみを込めて詩人は呼んだという証言はなく
リアルな現実を想像するよりも
これが「詩語」であることを重んじて読んでみたいところです。
 
 
夏の明方年長妓が歌った
       ――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ 
 
うたい歩いた揚句(あげく)の果(はて)は
空が白んだ、夏の暁(あけ)だよ
随分(ずいぶん)馬鹿にしてるわねえ
一切合切(いっさいがっさい)キリガミ細工(ざいく)
銹(さ)び付いたようなところをみると
随分鉄分には富んでるとみえる
林にしたって森にしたって
みんな怖(お)ず怖ずしがみついてる
夜露(よつゆ)が下(お)りているとこなんぞ
だってま、しおらしいじゃあないの
棄(す)てられた紙や板切(いたき)れだって
あんなに神妙(しんみょう)、地面にへたばり
植えられたばかりの苗だって
ずいぶんつましく風にゆらぐ
まるでこっちを見向きもしないで
あんまりいじらしい小娘みたい
あれだって都(みやこ)に連れて帰って
みがきをかければなんとかなろうに
左程々々(そうそう)こっちもかまっちゃられない
――随分馬鹿にしてるわねえ
うたい歩いた揚句の果は
空が白んで、夏の暁だと
まるでキリガミ細工じゃないか
昼間は毎日あんなに暑いに
まるでぺちゃんこじゃあないか
 
 
詩人が「詩の言葉」の方法として
「口語会話体」や「しゃべり言葉」を使って
「俗っぽさ」を意図した作品は数多くあります。
 
「あばずれ女の亭主が歌った」とか
「三毛猫の主の歌える」とか
ジュール・ラフォルグの詩の翻訳「でぶっちょの子供の歌える」とかは
タイトルだけをみても「俗な」イメージを与えますし
「夏の明方年長妓が歌った――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ」と
同じ系列の詩であることがわかります。
 
中原中也が訳したランボーの詩にも
「詩語としての俗」をねらったものが幾つか見つかります。
これはランボーの意図を
中原中也が汲(く)んで訳したもので
思いつくだけですが
「びっくりした奴等」「坐った奴等」などがそうです。
 
 
中原中也が詩の中で使った「地名」一覧を眺めていて
こうした寄り道をするのは楽しいことを発見しました。
 
 
中原中也が生きていた時代の「地名」ですから
【小笠原沖】 というのは現在よりもかなり遠隔地のイメージに違いなく
詩人は気象予報でこの言葉を聞き知ったものと推測されます。
 
【鹿児島半島】 
この地名は実際には存在しません。薩摩半島か大隈半島のどちらかか。両方を指示したのかもしれません。
 
【北沢】 
世田谷区に下北沢があり、上北沢がありますが、下北沢の地名はありません。小田急線と京王井の頭線が交差し、「若者の町」として下北沢は近年ますます賑やかな町「シモキタ」として変貌していますが、ここの地名は北沢です。中原中也の詩「北沢風景」の北沢は、京王線の上北沢駅周辺を指しますが、上北沢の地名はあります。昭和3年9月から昭和4年1月まで、関口隆克、石田五郎と共同生活をした家は、「高井戸町下高井戸2の403」ですが、この地番は当時の京王線北沢駅(現上北沢駅)が最寄りの駅でした。高井戸といえば現・杉並区ですから変に思えるかもしれませんが、北沢に住んでいたという感覚が詩人にあったのでしょう。
 
【道修山】 
中原中也は1937年はじめに、千葉市にあった中村古峡療養所に入院しました。この療養所があった千葉寺町の小高い丘の名が「道修山(どうしゅうざん)」です。

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