ツイッター

  • 中原中也(bot)
    (詩の全文が読めるリンク付)
  • 「中原中也」に関するツイート

末黒野

中原中也全詩集

  • おすすめ本

広告

中原中也詩集

  • おすすめ本

« 「白痴群」前後・愛の詩7「無題(緋のいろに心はなごみ)」 | トップページ | 「白痴群」前後・片恋の詩2「詩友に」 »

「白痴群」前後・片恋の詩1「女よ」

その1
 
中原中也の中期の恋愛詩が始まるのは昭和3年12月18日の「女よ」からである。
――と、大岡昇平が書いたのは
「文芸」の1956年6月号誌上においてです。
 
「片恋」と題した中也の伝記は
この年のはじめから
 
「京都における二人の詩人」(群像1956年1月号)
「離合」(新潮1956年1月号)
「富永の死、その前後」(別冊文芸春秋1956年3月刊)
「友情」(新潮1956年4月号)
「『朝の歌』」(世界1956年5月号)
「思想」(新潮1956年5月号)
――と書き続けられ
この「片恋」を経て
「白痴群」(文学界1956年9月号)で打ち切られます。
 
これらは
同年中に「朝の歌―中原中也伝」として単刊発行されます。
 
 
「女よ」は
詩の末尾に(一九二八・一二・一八)とあるように
昭和3年(1928年)の12月18日に作られました。
 
泰子と小林秀雄の暮しが破綻したのは
同じ年の5月です。
 
中也が「中期の恋愛詩」を書き始めたのは
小林と泰子が別れた後であると
大岡は結論したのです。
 
 
女 よ
 
女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやっておいでよ。
笑いでもせよ、嘆(なげ)きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思うと、すぐまた子供になってしまう
女よ、そのくだらない可愛(かわ)いい夢のままに、
私の許にやっておいで。嘆きでも、笑いでもせよ。
 
どんなに私がおまえを愛すか、
それはおまえにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やっておいでよ、奇麗な無知よ、
おまえにわからぬ私の悲愁(ひしゅう)は、
おまえを愛すに、かえってすばらしいこまやかさとはなるのです。
 
さて、そのこまやかさが何処(どこ)からくるともしらないおまえは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫のようにも戯(じゃ)れるのだが、
やがてもそれに飽(あ)いてしまうと、そのこまやかさのゆえに
却(かえっ)ておまえは憎みだしたり疑い出したり、ついに私に叛(そむ)くようにさえもなるのだ、
おお、忘恩(ぼうおん)なものよ、可愛いいものよ、おお、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
 
              (一九二八・一二・一八)
 
 
「女よ」以前にも多くの恋愛詩が書かれていることは
見てきた通りです。
 
ここでは大岡のいう「中期の恋愛詩」を
「片恋」から読んでいきます。
 
「片恋」には、
「女よ」
「かの女」
「詩友に」
「無題」
「寒い夜の自我像」
「追懐」
「盲目の秋」
「木蔭」
「夏」
「失せし希望」
「空しき秋」
「雪の宵」
「夏は青い空に……」
「みちこ」
「妹よ」
「時こそ今は」
――が取上げられました。
 
 
大岡がいう「中期」とは
上京して「朝の歌」を制作し
「白痴群」を経て「山羊の歌」を発行するあたりまでを指しているようです。
その期間の「恋愛詩」ということですから
「白痴群」が主な舞台であることは間違いありませんが
ほかにも「生活者」などへの発表があったことを見逃してはいけません。
 
この期間に
小林秀雄は泰子と別れ
「奇怪な三角関係」が発生・持続し
詩人は「白痴群」で「気炎」をあげましたがわずか約1年。
その後沈潜し
「山羊の歌」発行、結婚、第1子が誕生
――などの経過がありました。
 
この期間に作られた「恋愛詩」ということになります。
 
 
 
その2
 
泰子が小林に逃げられたという知らせは
中也を喜ばせました。
泰子が再び戻ってくるという期待があったからでしょう。
 
その頃
大岡昇平は中也が渋谷駅周辺の町角を
タクシーでどこかへ行くところに遭遇しました。
その場面を「思想」の締めくくりに記述していて
ここに出てくる詩人の「顔」を想像するだけで
「爆笑」を誘われます。
 
小林は「行方不明」の状態で
友人らは四方八方を探し回っていた時期ですから
笑っていられる状態ではありませんが
これを記述する大岡の筆致が生々しく
「富永の死、その前後」「友情」「『朝の歌』」と
「緊迫」を孕んだ三角関係の進行を読んできた者を
「解放」するのです。
 
 
 (略)2日ばかり経って、渋谷駅前を歩いていたらタクシーへ乗って中原が来かかった。男の相客と何やら笑いながら話している。私はその後の様子を聞こうと思って駆け寄った。中原は私を認めて、笑いながら手を振り、タクシーは走り続けた。
 
 停るだろうと思われた地点を越しても走り続けるので、諦めて立ち止った頃、タクシーは大分先でやっと停った。中原は窓を開けて
 「駄目だ。まだわからん」
 とか何とか言った。これから駒場の辰野先生の家へ行くところだという。相客は澄まして向うを向いていた。これが佐藤正彰だった。
 
 中原の浮き浮きした様子は小林の行方と泰子の将来を心配している人間のそれではなかった。もめごとで走り廻るのを喜んでいるおたんこなすの顔であった。中原はそれまで随分私をうれしがらせるようなことをいってくれたのである。うっかり出来ないぞと思ったのは、この時が初めである。
(略)
 
(角川文庫「中原中也」所収「Ⅱ朝の歌」より。「改行」を入れました。編者。)
 
 
「2日ばかり経って」というのは
昭和3年5月上旬のある夜、
小林が泰子と暮す家を出た日の2日ほど後ということを指します。
 
この日からおよそ7か月後に
「女よ」は作られました。
 
ベルレーヌの「叡智」の強い影響がある詩といわれています。
 

« 「白痴群」前後・愛の詩7「無題(緋のいろに心はなごみ)」 | トップページ | 「白痴群」前後・片恋の詩2「詩友に」 »

スポンサードリンク

「山羊の歌」〜羊の歌

未発表詩篇〜ダダ手帖(1923年〜1924年)

おすすめ本

中原中也の手紙から

中原中也の手紙

ランボー詩集

  • おすすめ本

中原中也が訳したランボー(はじめに)

ランボー詩集〜附録

ランボー詩集〜後記

ランボー〜ノート翻訳詩

ランボー〜翻訳草稿詩篇

ランボー