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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年9月23日

その1
 
詩人の魂の最大の惑乱時代がやがてここに始まる
――金沢発の絵はがき「手紙48」に付けた安原のコメントは
先を急ぐかのようです。
 
このコメントの後半部で
 
 この秋、詩集の予約成績は依然思わしくない乍らも、原稿は一先ず印刷屋に渡すことにした。差し当っての費用は彼が郷里から調達して来た。表紙の意匠は私が受け持つことになった。私達は足繁く麻布の方にある美鳳社という印刷屋の店に通った。二人とも商人との交渉にはてんで能無しであった。帰途は遙かに見える下町の灯を望んで麻布の坂を降り、彼の鬱憤は夜とともに益々激しく爆発するのであった。
 
――と記し、金沢には触れません。
 
そして、大森・北千束へ引っ越した詩人からの第1便を紹介します。
 
 
「手紙49 9月23日 はがき」(新全集は「111」)
 
先日は失礼
今日美鳳社から手紙が来ました 表紙と扉は木版にするそうでして、それと地の色との校正が27、8日頃出来るから一度来てみてもらいたいとのことです 何れ電話差上げますからその節は又御足労お願いします
地の色は鼠ばかりでなく、淡い緑の含まった鼠がよいような気がします 勿論現物を見た上で、専ら君の判断されんことをお願いします
佐規の山岸に於ける状態は、目下小康を得ています
                          怱々万万
 
 
詩人は
詩集を出版するモード全開で、
出来上がりのイメージのディテールにも言及します。
 
地の色は鼠ばかりでなく、淡い緑の含まった鼠がよい
――と「地の色」への微妙な趣向を述べながらも
その「仕事」を安原の裁量に委ねようとし
各々(おのおの)の役割分担を尊重しようとします。
 
美術は安原の専門ですから
詩人は安原の志向を受け入れつつ
「淡い緑の含まった鼠」などと詩人なりの希望も披瀝してみせました。
 
グレー・グリーン!またはグリーン・グレー!
なんと、洒落た色合い!
 
 
このはがきに安原が寄せたコメントは
「中原中也の手紙」中の最も長く力のこもった文となります。
 
 
 
その2
 
「手紙49 9月23日(はがき)」(新全集では「111」)に安原喜弘が加えたコメントは
かつてない長文になりました。
その冒頭部分は
詩集の経緯を辿るものです。
 
 
やがて本文の印刷だけはどうやらかなり満足に出来上がったのであるが、それ以上の金が最早や如何としても工面出来ず、切り離しのまま私の家に引き取って保管することにした。
校正は7校位いまでとり、完璧を期した。印刷屋を説き伏せるのは実に容易なことではなかったが渋々承知させた。用紙、活字、組みその他細心の注意を以て当った。
たとえば多くの詩は見開き2頁におさめ、中央の綴じ目のところの間隔、つまり詩の第2節と第3節間の空白が本を開いたとき、その他の間隔と同じになるように極めて微細な注意を払ったりした。
表紙の木版は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。
そしてその後の製本から出版までの引受け手を探して私達はちょっとした聞き込み等を頼りに次々と交渉を続けたのだが、遂にこの本文の印刷はその紙型とともに全2年間私の家の納戸に埃を浴びることになってしまった。
 
(※改行を入れました。「洋数字」に変換してあります。編者。)
 
 
昭和9年12月末に発行される「山羊の歌」の
苦難の道のりのはじまりを告げるものです。
それは同時に
安原の眼差しに「詩人の魂の動乱の時代」を告げるものでした。
 
 
 此の時友人は殆ど去っていた。従って詩人の最大の惑乱の時期について今日それを知る人は殆どないであろう。詩人高森とその弟、下宿の主婦と私、僅かにこの様な極めて少数のものが身を以ってこれを知る丈(だ)けである。
 
 
このように安原が記さねばならないほどに詩人は孤立し
孤立した詩人の近くにあって詩人の様子を見ていた人々の名を挙げます。
その詩人が衝突したのを見た人々も
その衝突がそれまでになく激しいものであったことを記憶しているに違いないことを
安原は記します。
 
 
その3
 
「淡い緑の含まった鼠」と詩人が希望を述べれば
安原は、遠い日を思い出したかのように
7校にわたった校正作業や、「ノド」部のスペースの調整(組み替え作業を伴います)など
細心の注意を払ったことを補足します。
 
校正作業は
赤インクで校正箇所を書き込み、
その都度、印刷工場に活字の差し替えや組み直しを行ってもらい、
ゲラ刷りを出してもらい、
そのゲラに赤字を入れ、また工場に活字組みを直してもらう作業を
7回くらい繰り返した(7校)というものですから
念の入れようを想像することができます。
 
印刷屋を説き伏せるのは実に容易なことではなかったが渋々承知させた。
――とあるのは、印刷工場泣かせの「念校」だったことも想像できます。
 
 
「手紙49 9月23日」に寄せた安原のコメントの冒頭部に、
 
表紙の木版は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。
 
――とあるのは
安原制作による表紙デザイン(装丁)が
後に青山二郎に「ボツ」にされてしまった事件を指します。
 
結果は、青山二郎の装丁にもならず
高村光太郎のものになり
現在、初版本として残った「山羊の歌」になったことは周知のことですが
この事件は、安原喜弘が書いて未公表だった手記が
1983年(「山羊の歌」初版から33年後)に「小林秀雄の思い出」として公開されたことで
明らかになりました。
 
 
これらの経緯について
目下、神奈川近代文学館で開催中の「中原中也の手紙」展で頒布している小冊子に
安原の長男、喜秀さんが「ばちゃーん」のタイトルのエッセイを寄稿し
更に広く知られるようになっています。
 
 
中原中也と安原喜弘の稀有(けう)な交友が
やがて悲劇的結末を迎えるに至る流れに
この事件が直接繋がるものではありませんが
ほのかな兆(きざし)のようであり
暗示となるような事件でした。
 
今はしかし、安原のいう「詩人の動乱」を見ていく時です。
 
 
 
その4
 
私達は刻々に去来する彼の幻聴と戦い、想念と戦い、根気よくその一つ一つを捉え、それを解明し、彼を説得するのであるが、彼の納得は永く続かなかった。忽ちにして一切はまた混乱に陥るのである。或は一度納得したとみえて実はすべて依然として混乱の儘であったのかもしれないのだが。
 
私達は遂になすすべもなく、唯奔命にこれ疲れ果てるのみであった。夜ともなればまた彼は街の灯を求め友を求め、雑踏の巷に足を踏み入れた。そこに己れの想念を確かめ、時にそれを実行に移すのである。私は彼と衝突の恐れあるすべての友人達との接触を極力回避しようとするのであるが、それも結局は徒労である。足はいつしか戦場に踏み込んでいた。
 
(※講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。改行を加えてあります。編者。)
 
 
安原喜弘は
「詩人の魂のこの最大の動乱」について語りはじめ
いつしか2人して入り込んでいった「雑踏の巷」や「戦場」に触れます。
その一つが京橋の酒場「ウインゾア」でした。
 
 
此処に毎晩殆ど主なる顔ぶれが揃うのであるが、彼はどうしてもそこへ行くことを主張するのである。私はなんとかして行かせまいと力を尽くすのだが、結局は彼の体はそこのドアを開けてしまうのである。私のいないときは尚更である。そこで彼の毒舌はいやが上にも散乱し、そして最後にはいつもの乱酔と乱闘に終る日々が続くのである。こうして彼は嘗て彼の最も親しかった友人達とまた最も憎み合わねばならなかったのだ。
 
 
「ウインゾア」は青山二郎が「死んだ女房の弟夫婦にやらせた酒場」。
「中原が此処でよく喧嘩したものだが、喧嘩を仕掛けてなぐられるのは何時でも中原の方だった。」と
後に「酒場『ウィンゾァーの頃』その二」に記し
詩人は、ここで坂口安吾を知ったり
ここで働いていた女給洋子(坂本睦子のこと)に求婚して断られたりした……
伝説の酒場です。
 
 
銀座・京橋の酒場で孤立する詩人に寄り添う安原。
詩人の返り血を安原が浴びないはずはありません。
 
詩人はこの酒場に何を求めたのでしょう
「乱酔乱闘」が誇張でないのでしたら
詩人はその果てに何をつかんだのでしょうか
 
 
安原は、詩人のこの「「動乱」が
 
この年の9月末頃に始まり、
年の暮とともに一度その極限に達し、
やがて年改まり春の訪れとともに魂は再び徐々に平静に帰すかに見えた
――などと記し、次の手紙を読み進めます。
 
 
 
その5
 
「詩人の魂の動乱」と安原が名付けたものは何だったのか――。
もう少し、詳しく見ておきましょう。
 
 
「手紙49 9月23日」(新全集は「111」)に加えた安原のコメントをよく読むと
 
「困乱の徴」
「夢と現実と、具体と概念とは魂の中にその平衡を失って混乱に陥り、具体は概念によって絶えず脅迫せられた」
「神経衰弱」
 
「全霊を蔽う根強い強迫観念」
「家も木も、瞬く星も隣人も、街角の警官も親しい友人も、今すべてが彼に向い害意を以て囁き始めた」
「風が囁き小鳥が囁き、遠くの方で犬すらも詩人に向って鳴く」
「森羅万象すべてが今声なき声を語りだした」
「魂の葛藤」
「遠くヨーロッパの声々」
 
「幻聴」
「妄念」
――などの言葉が見られますが
「神経衰弱」というよりか「魂の動乱時代」と捉えているところに
安原の独自な見方があるようです。
 
「幻聴」「妄念」は、その核心にある現象だったといっているのかもしれません。
 
 
「幻聴」「妄念」を実際目撃したのは
高森文夫
弟の高森敦夫
高森兄弟の叔母(下宿の主婦)
私=安原。
 
ほかにも
詩人が接した人々は
その激突の激しさと頻度を記憶している(はず)――などと記しています。
 
 
私達は刻々に去来する彼の幻聴と戦い、想念と戦い、根気よくその一つ一つを捉え、それを解明し、彼を説得するのであるが、彼の納得は永くは続かなかった。
 
 
そして、戦場へ踏み込んでいった。
 
詩人がそこで戦わせたものこそ
「詩」であったはずでしたが……。

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