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生きているうちに読んでおきたい16・「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」

その1

「在りし日の歌」の編集はどのような経過で行われたか――。

「永訣の秋」を集中して読んできて残すのは
「また来ん春……」
「春日狂想」
「蛙声」の3作品というところにさしかかりました。

「永訣の秋」の読みがフィニッシュ段階に入るということで
「在りし日の歌」の編集が
愛息・文也の死によって被(こうむ)ったある変更について
ここで目を向けておきます。

「在りし日の歌」は
文也の死(昭和11年11月10日)以前から編集が開始されていましたが
文也の死によって追悼の目的をあわせ持つようになって
「含羞」を冒頭詩とするなどの変更が行われたのですが
そのあたりのこととも関連することです。

「新編中原中也全集」(角川書店)が
他に類例をみない綿密な考証の成果をふんだんに盛り込んでいるのは
小林秀雄による中原中也の死直後の評価の仕事以来
戦後にはじまった大岡昇平や安原喜弘らの仕事へつながれ、
そしてこれらの基礎工事の上に築かれた3次にわたる全集編集へつながれたという
長い歴史的所産であるからです。

新全集(新編中原中也全集)には
大岡が中村稔に参加を呼びかけた第1次(~第3次)
次に吉田凞生(ひろお)が参画した第2次(~第3次)
そして宇佐美斉、佐々木幹郎が参画した第3次編集委員会のメンバーらによる
幾人もの仕事が積み重なっています。

この新全集に
「在りし日の歌」の「成立過程」と「編集過程」がくわしく記述されていますから
それを読んでみれば
「在りし日の歌」は昭和11年前半に編集が開始され
小林秀雄に清書原稿が託される昭和12年9月まで
5回に期間分類できる編集期を経たことが分かります。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

その2

中原中也が第2詩集の編集をはじめたことを確定する
具体的資料は実のところなんら残存しません。
「山羊の歌」出版以後に詩人が著(あら)わした日記や書簡にも
編集を開始したという明確な記述は見つかっていません。

つまり全ては
日記や書簡などを参考にして立てられた仮説です。

日記、書簡は詩人本人が書いたものですから第一級の資料ですが
そこに何の記述もないときに
どのような方法で仮説が立てられたか――。

その方法が新全集に明らかにされていますからそれを読むと
推理小説を読むようなスリルとサスペンスに満ちた記述に出会いますが
その記述は文学的立場から逸脱(いつだつ)しない
あくまで実証的手法による考証・校訂に基いています。

それはすでに旧全集(大岡昇平、吉田凞生、中村稔)でとられた方法でしたが
新全集(新たに、宇佐美斉、佐々木幹郎が参加)は旧全集の成果の上に
いくつかの修正や再発見を取り入れて
よりいっそう綿密な記述へと再構築しました。

新旧全集ともに最も有力な手掛かりとしたのは
原稿用紙の種類とそこに書かれた内容で
これらから使用時期を検討し編集時期を推定、
全編集期間を5期間に分類し
それぞれの期間の特徴を分析しました。

その5期間を
ざっと眺めてみますと

第1次編集期 昭和11年前半
第2次編集期 昭和11年後半
第3次編集期 昭和12年春
第4次編集期 昭和12年夏
第5次編集期 昭和12年秋

 

――となります。
 
第2次編集期と第3次編集期の間に
長男文也の死がありました。

 

その3

昭和11年11月10日、
長男文也が小児結核で死亡するという不幸に見舞われた詩人は
悲嘆の底に沈み、精神に変調をきたしたため
家人のはからいで千葉の中村古峡療養所へ入院したのは
明けて昭和12年1月9日。
1か月以上の療養の末、2月15日に退院し、
2月27日に四谷・市谷の住まいを払い
鎌倉の寿福寺境内の借家へ引っ越します。

文也の死後で昭和11年内に
中原中也が新たに制作した詩篇は
①未発表詩篇「断片」
②未発表詩篇「暗い公園」
③「また来ん春……」
④「月の光 その一」
⑤「月の光 その二」
⑥未発表詩篇「夏の夜の博覧会はかなしからずや」
⑦「冬の長門峡」
――の7篇です。
(※旧作を作り直したり再構成したものを除く。詩篇以外では散文の評論で「感想」「詩壇への願い」「詩壇への抱負」があります。)

「断片」が作られたのは昭和11年11月11日から17日の間と推定され
「冬の長門峡」は昭和11年12月24日(日付けあり)ですから
およそ1か月半の間に7作品を制作しています。

散文を含めれば10作品におよび
昭和11年末の制作意欲は
完全には衰えていなかったことを示しています。

「在りし日の歌」の第3次編集に入るのは
鎌倉に来てしばらくした春頃らしいのですが
2月には「また来ん春……」(文学界2月号)
4月には「冬の長門峡」(文学界4月号)
5月には「春日狂想」(文学界5月号)を発表しています。

千葉の療養所への入退院と鎌倉への引っ越しで
空白を余儀なくされた期間をやり過ごして
2月には詩活動をはじめているということになります。
空白は1月と2月のうちのわずかな期間でした。

 

この間にも、「在りし日の歌」の編集構想が
「頭の中で」進んでいなかったと断言できるものでもありません。

その4

5次にわたる編集期は
全集委員会が考えた便宜的な「期間区分」であって
中原中也がいつからいつまでと期間を区切ったものではありません。
創作や編集的な作業を禁じられていた療養中にですら
「頭の中」には「在りし日の歌」の構想が進められていたかもしれないのに
それは表面に出てくることはありませんでした。

詩人は聞き分けがよかったのですし
療養所長の中村古峡という人物を信頼していたのかもしれません。

「また来ん春……」が
昭和11年の年末に制作され
中村古峡療養所を退院して直後に発表されたという事実は見逃してなりません。

発表は第3次編集期に入る直前ということになりますが
これをすでに第3次編集期に入った時期と考えることも可能ですし
逆に第2次編集期に入れることも可能です。
文也の死後およそ1か月して作られた詩が
療養期間中に編集・印刷されて公表されたのです。

そして「また来ん春……」は
文也の死を直接的に歌った初めての作品です。
字義通り追悼詩と呼べるものです。
文学界の同じ2月号に「詩三篇」と題して
「月の光 その一」「その二」とあわせて発表されたのです。

冬来たりなば春遠からじ
春よ来い早く来い
春は名のみの風の寒さや
……
春を待ち望む声は冬の間巷間に満ち溢れます。

またやって来る春、と世間の人はよく口にしますが
それを聞くのが辛くてしょうがない
春が来たからどうなるというんだ
あの子が帰ってくるわけじゃない――。

感じている核心にあるところを
ズバリと言い出すのは
「春日狂想」と同じです。

しかし、思いの丈を述べるだけに流そうとしない意思が
ソネット(4433)、75のリズムという定型に表われます。

叙情を情念のほとばしりにまかせるだけに終らせない。
定型の中に叙情を閉じ込めようとしているかのような。

 

「また来ん春……」を制作したのと同じ頃
日記に「文也の一生」が書かれていますが
どちらが先に書かれたのか分かっていません。

 

その5

やや迂回(うかい)しますが
「文也の一生」というタイトルのある「日記」を読んでみましょう。

文也が死んだのは昭和11年11月10日でしたが
翌々日の12日付けで
届けられた香典の内訳をメモして以来途絶えていた日記が
1か月後の12月12日付けで再開されます。

再開されても年明けてすぐに療養生活を余儀なくされるので
自前の日記は書き継がれず
このノートによる日記は
「文也の一生」の3日後に書かれた次男愛雅(よしまさ)の誕生と
戯歌と称した2行詩を記しただけで終りとなります。

読みやすくするために「新字・新かな」表記に変え、適宜(てきぎ)行アキを加えます。

日記(昭和11年12月12日)
文也の一生

 昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒ったによって帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待っていたりしも生れぬので小生一人上京。10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえという日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつづく。

 昭和9年12月10日(ママ)小生帰省。午後日があたっていた。客間の東の6畳にて孝子に負われたる文也に初対面。小生をみて泣く。それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴われて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。(12月9日(ママ)午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来ている。)
 
 手術後長くはないとの医者の言にもかかわらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子方部屋の次の次の8畳の間に寝る。祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立っていたり、東の8畳の間。
 
 3月20日頃小生腹痛はげしく34日就床。これよりさき1月半ば頃坊や孝子の乳房を噛み、それが膿みて困る。3月26日呉郎高校に合格。この頃お天気よく、坊やを肩車して権現山の方へ歩いたりす。一度小生の左の耳にかみつく。
 
 4月初旬(?)小生一人上京。4月下旬高森敦夫上京アパ-トに同居す。6月7日谷町62に越す。高森も一緒。6月末帰省。7月10日頃高森文夫を日向に訪ぬ。34にち滞在。7月末祇園祭。花火を買い来て坊やにみす。8月10(ママ)日母と女中と呉郎に送られ上京。湯田より小郡まではガソリンカー。坊や時々驚き窓外を眺む。3等寝台車に昼間は人なく自分達のクーペには坊やと孝子と自分のみ。関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。上京家に着くや坊や泣く。おかゆをつくり、少し熱いのをウッカリ小生1匙口に入れまた泣く。
 
 9月ギフの女を傭う。12月23日夕暇をとる。坊や上京四五日にして匍ひはじむ。「ウマウマ」は山口にいる頃既に云う。9月10日頃障子をもって起つ。9月20日頃立って一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段を登る。降りることもじきに覚える。拾郎早大入試のため3月10日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチャン」なり。拾郎合格。宇太郎君山高合格。8月の10日頃階段中程より転落。そのずっと前エンガワより庭土の上に転落。7月10日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチワや風鈴を買う。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。
 
 春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニャーニャー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニャーニャー」という。豹をみても鶴をみても「ニャーニャー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。6月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。7月敦夫君他へ下宿す。8月頃靴を買いに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子3人にて夜店をみしこともありき。8月初め神楽坂に3人にてゆく。7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

 

※「新編中原中也全集 第5巻」より。文中(ママ)とあるのは、考証の結果、詩人の記憶違いであることが判明しているものです。

 

その6

「文也の一生」は日記の8ページにわたって
毛筆で書き付けられました。
そして

7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

――と書いたところで途切れます。

同じ毛筆で書かれたのが
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」で
この詩は発表されていませんが
明らかに「文也の一生」を中断した後で
書き継がれた形跡があり
内容も博覧会に親子3人で行った時のイメージを膨(ふく)らませたものになっています。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」に続けて
「冬の長門峡」が書かれました。
これも毛筆で書かれました。

ここで「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を読んでおきます。
読みやすくするために「新字・新かな」表記に変え、適宜(てきぎ)行アキを加えます。

夏の夜の博覧会はかなしからずや
 
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちょと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に余と坊やとはいぬ
二人蹲(しゃが)んでいぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりきかなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買いぬ、兎の玩具かなしからずや

   2

その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なお明るく、昼の明《あかり》ありぬ、

われら三人《みたり》飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!
       (一九三六・一二・二四)

 

※《 》で示したルビは原作者本人によるもの、(  )は全集編集委員会によるものです。

その7

「文也の一生」
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」
「冬の長門峡」
――をインクのペン書きから毛筆に変えて書いたのは
特別な思いを込めたからに違いありません。

このことは愛児文也の突然の死が
詩人に与えた衝撃のすべてを物語るようです。

毛筆で書くなどは前例がないものでしたし
日記から詩へ
詩から詩へ
――という連続と非連続。

特に「夏の夜の博覧会はかなしからずや」から
「冬の長門峡」への連続(と非連続)に耳を澄ませば

ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。

――のポエジーによりいっそう深いところで触れることになるでしょう。

文也の死を過去の事実として
詩人は認めようと努力したのです。

「また来ん春……」は
これら三つの追悼詩(文)とほぼ同時期に作られたものでありながら
どちらが先に作られたか断定できない作品ですが
東京・上野動物園へ文也を連れて行ったときの様子が描かれているのは
「冬の長門峡」以外に共通しています。

「また来ん春……」は
毛筆で書くという特別な心境に入る以前に
文也の死を悼んだ詩として作られたのかもしれません。
とすれば
文也追悼の初めての詩ということになります。

「永訣の秋」に
「また来ん春……」
「月の光 その一」
「月の光 その二」
「冬の長門峡」
「春日狂想」
――と続く「わかれの歌」ですが
悲しみを詩の中に
閉じ込めようとしても
閉じ込めようとしても
滾々(こんこん)と湧き出るかのようなそれを
容易に手なずけることもできずに
詩人はそれをシュール(=超える)する姿勢をとったり……。
真正面から受け止めたり……。

 

たたかう気持ちを崩しません。

その8

中原中也は中村古峡療養所に入院中の一定期間に
創作を禁じられていたのですが
なにも書いてはならないという厳格な禁止期間はそう長くはなく
特に後半期には
詩篇さえ残していますから
創作意欲は旺盛にあったものの
療養に専念したといえることでしょう。

昭和12年2月27日、鎌倉へ引っ越した日から
「蛙声」が制作された5月14日までが
「在りし日の歌」の第3次編集期とされていますが
この期間には
当初からの詩集タイトル「去年の雪」が維持され
冒頭詩篇は「むなしさ」でした。

「蛙声」の制作が
大きな節目になります。

この詩を「在りし日の歌」の最終詩篇と決めることによって
詩集全体の構成がほぼ完成するのです。
これが第4次編集期です。

「亡き児文也の霊に捧ぐ」の献辞を添えた「在りし日の歌」というタイトルが決まり
「含羞」が冒頭詩篇とされ
そこには「在りし日の歌」のサブタイトルが置かれ
最終詩篇を「蛙声」とする
――とした大枠が次々に決められました。

これらはほぼ同時に決められたと考えるのが
編集という作業という面からみても妥当でしょうから
前後関係はあっても無いのと同然です。

この作業の中で
かねて「別れの秋」という題を候補にしていた第2章を
「永訣の秋」と決め
第1章を「在りし日の歌」としますが
「在りし日の歌」が
詩集全体のタイトルであり
第1章のタイトルであり
冒頭詩「含羞」のサブタイトルでもあるというくどさを
詩人は受け容れました。

詩人は
「これでよし!」としたのです。

 

ああしようこうしようと
配置を試行錯誤し
ようやく「在りし日の歌」全体の構造が決まったときには
個々の詩篇の配列も
ほとんど決まっていました。

その9

「在りし日の歌」のとりわけ「永訣の秋」に
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を採らなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」を選んだ理由が見えてきました。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を
よーく味わっていれば
それを理解できる気がしませんか?

この詩を何度も何度も読んでいると
追悼詩としての絶唱であることを
誰しもが感じとるに違いありません。

次第次第に悲しみが高まってきて
いましも倒れてしまいそうになるほど
詩人の感情にシンクロし
詩の中に入って
詩人の悲しみを悲しむことになります。

悲しみでめまいがする感覚になるのです。
そのように
悲しみの「現在」が
歌われているのです。

あまりに現在的すぎて
「永訣の秋」にマッチしなかったのです。
「在りし日の歌」に採るにも
詩人の今が歌われていて
「過去」のものになっていなかったことを
詩人自ら分かっていたのです。

「あがりぬ」
「ありぬ」
「いぬ」
「きぬ」
「出でぬ」
「買いぬ」
「のりぬ」
「めぐりぬ」
――と完了を示す助動詞「ぬ」で強調すればするほど
現在が浮かび上がります。

全篇を通じて現われる「ぬ」の繰り返しも
「1」で8回も出てくる「かなしからずや」のルフランに
かき消されてしまうためでしょうか。

「また来ん春……」はその点で
「月の光」や
「春日狂想」や
「冬の長門峡」と同じように
内容との距離感があり
作意・創意といったものまであり
過ぎ去りし日へのわかれ歌の域に達しています。

これは作品の完成度の問題ではありません。
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
稀(まれ)にみる追悼詩です。
その絶唱です。

「永訣の秋」に収めるには
バランスを欠いただけの話です。

 

「また来ん春……」が
ソネット、75調である上に
「辛いのだ」
「何になろ」
「来るじゃない」
「ニャーといい」
「ニャーだった」
「いたっけが……」
――という口語会話体で書かれていることも
内容との適度な距離を感じさせる効果を生んでいます。

 

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