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「白痴群」前後・幻の詩集11「秋の夜」補足

「秋の夜」には
夜霧
草叢
竝木
……などと「自然」が現れます。
 
これらの自然は
これが歌われた時に
詩人が眼前にしていた自然であるならば
武蔵野の風景です。
 
 
そうならば「秋の夜」は
「武蔵野の夜」とか「武蔵野の秋」というタイトルであってもおかしくはないでしょうか?
 
そんな単純な話ではなさそうです。
 
 
この詩を作った頃
中原中也が河上徹太郎に宛てた手紙が
この点についてのヒントになりますから
それを読んでおきましょう。
 
河上徹太郎はやがて
「白痴群」を中也とともに牽引する一人です。
両輪といってもよい位置にいました。
 
 
昭和3年(1928年)
「28 1月(推定) 河上徹太郎宛」
 
 私は自然を扱います、けれども非常にアルティフィシェルにです。主観が先行します。それで象徴は所を得ます。それで模写ではなく歌です。
 
        ※
 
 マラルメの苦しみは、物象が心象と離れているためであった。言換れば夢と現実との間に跨(またが)っていたからであった。彼は歌を歌おうとして自然を解剖した。自然を解剖しようとして人生学的意味の世界に心誘(ひ)かれるのだった。
 
思惟せねばならぬ、思惟したらば忘れねばならぬ。行為は直観でなされるばかりだ。
 
(「新編中原中也全集」第5巻・日記・書簡篇より。「新かな」に改めました。編者。)
 
 
詩人は
自然を「アルティフィシェル」に扱うといいます。
「アルティフィシェル」はフランス語の発音で
英語で「artificial アーティフィシャル」。
 
つまりは人工的とか作り物という意味で
詩人に備わった
感受性とか教養とか
言語感覚とか言語意識とか
思想とか歴史観とか宇宙観とか。
 
これら「主観」を通過した自然であるから
「象徴」が生きてくる(=所を得る)
それはもはや模写(描写)とは異なるものであり
ズバリ「歌」なのだと主張します。
 
詩人自らが「象徴(詩法)」について述べた
貴重な発言です。
 
 
この書簡は、
河上邸の被災で消失しました。
河上が「文学界」の昭和13年10月号に発表した
「中原中也の手紙」に引用したため
活字として残ったのです。
それを底本として
新全集に収録されています。
 
 
「秋の夜」に現われる
夜霧、森、空、草叢、蟲、原、竝木……などは
「アルティフィシェル化された自然」ということになります。
 
中原中也の作詩法の一端がここにあります。
錬金術ならぬ錬歌術、錬詩術――。
 
森が黒く/空を恨む。
暗闇にさしかかれば、/死んだ娘達の歌声を聞く。
近くの原が疲れて眠り、/遠くの竝木(なみき)が疑深い。
――といった表現は
ダダイズム脱皮の過程で
いまや詩人の薬籠(やくろう)中の詩法となりつつあります。
 
再び「秋の夜」を読んでみましょう。
 
 
秋の夜
 
夜霧(よぎり)が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。
 
外燈の下(もと)に来かかれば
なにか生活めいた思いをさせられ、
暗闇にさしかかれば、
死んだ娘達の歌声を聞く。
 
夜霧が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。
 
深い草叢(くさむら)に蟲(むし)が鳴いて、
深い草叢を霧が包む。
近くの原が疲れて眠り、
遠くの竝木(なみき)が疑深い。
 
 
擬人化された自然であるよりも
アルティフィシェル化された自然は
たとえば第2連の
「死んだ娘達の歌声を聞く」に
読み取れるでしょうか。
 
第2連の自然(暗闇)には
ランボーの「死んだ娘達の歌声」(アルティフィシェル)が隠されています。
 
 

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