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戦中派が読んだ中原中也・黒田三郎の場合

その1

黒田三郎(1919~1980)という詩人は
「日本の詩に対するひとつの疑問」を昭和29年に発表し
中原中也の詩を批判しましたが、
その後、「偏見の歴史」を書いて
中原中也への評価を再検討した人です。

この人も、
屈折がありながら
中原中也と出会った詩人ということができるでしょう。

「偏見の歴史」にこんな一節があります――。

昭和14年12月刊の「現代詩集」全3巻がいま手許にあるが、その第1巻には5人の詩人の作品が収録されており、「帰郷」と題して神保光太郎氏が中原中也の詩29篇を選んでいる。戦前の蔵書は1冊もなく、これは数年前に入手したものであるが、見覚えがある。昭和22年8月刊の「中原中也詩集」をよむまでにも、こういうもので詩はよんでいたろうし、中原中也についての伝説のいくらかは知っていただろうと思う。しかし、それまでは強い関心をもたなかった。この「現代詩集」全3巻には、「歴程」「四季」系統の詩人たちに北川冬彦、高橋新吉、金子光晴の3氏を加え、計15人の詩が収められているが、昭和10年代、丁度生長期の僕がよんだのは、丸山薫、三好達治、北川冬彦の3人くらいであった。
(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇)

ここでも「現代詩集」が現われます。
昭和14年に発行されたこの詞華集が
戦時下の青春に与えた影響の大きさをまた想像することができますが、
「現代詩集」に鮮烈な記憶があるとは言わず
「見覚えがある」として
ここに収録された詩人15人のうちで
昭和10年代に親しく読んだのは、
丸山薫、三好達治、北川冬彦の3人だった、と回想するのです。

というのも、中原中也が死んだ昭和12年に
黒田三郎は旧制高校にいて
「詩と詩論」の系統のモダニズム詩人たちに傾倒していたからで
その傾向の中では、
丸山、三好、北川を読めても
中原中也に親しむことはなかった、というものでした。
そして、

中原中也の詩をよむためには、不幸にしてここでずれてしまった。そして、春山行夫氏その他の詩論をよむことによって、モダニズムの詩以外には次第に不感症になってしまった。若気の至りとでも言うべきものであろう。

――と述懐しています。
黒田三郎のような感懐をもつ人は
案外多く存在することが想像できますが
このように表明されるケースはまれです。

黒田三郎の「日本の詩に対するひとつの疑問」は
中村稔篇「中原中也研究」(昭和38年)に収録され
このために「今でも、20年前の文章が、僕の中原中也論として、物議をかもしている」ので
偏見を解くという意味をも込めて、
角川全集「資料・研究篇」刊行にあたり
「偏見の歴史」の題で寄稿されたものです。

黒田三郎は「偏見の歴史」の中で
中原中也の「現代と詩人」を引き合いにして
さらに続けます。
その「現代と詩人」を掲載しておきます。

(つづく)

 *

 現代と詩人
 
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。

――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別(かくべつ)新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考(かんが)うべきものはある。

とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。

私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

   2

われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがえる、春の訪(おとず)れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌(かお)をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居(ぐうきょ)への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据(す)えられた食卓のことをかんがえる。

私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等(かれら)も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢(ちせい)と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今(とうこん)日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふか
い)の、陳列みたいなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシ
スなら遂行(すいこう)されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。
 
※「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新字・新かなで表記しています。編者。

その2

この詩を借りて言うと、戦後3年という時点では、この第2連の第1行のような気持が、僕のなかでは荒れ狂っていたのである。

――と、黒田三郎は、
中原中也の生前発表詩篇「現代と詩人」の第2連の第1行
「――そんなの古いよ、という人がある。」を指示して
戦後3年に抱いていた詩一般、詩全般への気持ちを述べ
中原中也の詩もこの気持ちの中で読んだことをまず明らかにしています。

新しいものでなければ受け入れられなかった戦争直後の詩人は
モダンな詩も、プロレタリア詩にもにせ物めいたものを感じていて
「そんなの古いッ古いッ!」という人が多い中で
それはそうだけれどそれだけでは物足りない、と歌う詩の一節に
中原中也はにせ物ではないと感じたのですが……。

逆に、というか、そうだからというか、
昭和29年に発表した「日本の詩に対するひとつの疑問」は
中原中也の詩の私詩性や叙情性を
「こっぴどくこき下ろす結果になり」、
この批判は
「若年の思い上がり」であると同時に
「限りのない、ないものねだりだったかもしれない」と振り返ります。

黒田三郎は、このようにして、
中原中也や中野重治といった詩人に
当時、最も親近感を抱いていたにも拘らず批判したのは
「最も愛する詩人を批判するという形での、自己批判」だった、
だから、この批判は自分自身に向けられている、と説明するのです。

「日本の詩に対するひとつの疑問」を読んでおきたいところですが
なかなか手に入りません。
「黒田三郎著作集」に収録されているのかもわかりませんが
「中原中也研究」(中村稔)を比較的に容易に読めるかもしれません。

詩や詩人を発見する道は一つの道ではなく
長い時間をかけてなされる場合があるものですが
これはどんな物事にもいえることでしょう。

戦中派世代にも
中原中也との曲折を経た出会いがあったという例です。

「現代と詩人」は
昭和11年(1936年)の「作品」12月号に発表された作品です。
同年10月の制作(推定)です。
長男文也が満2歳になる前で
詩人としての名声は次第に高まり
雑誌新聞への寄稿を盛んに行い
座談会などへも頻繁に顔を出すようになっていた頃の制作ということになります。

 

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