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生きているうちに読んでおきたい15「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」

その1

存在感のうすいヒト・モノ・コトを扱っているという角度で
「幻影」
「月夜の浜辺」
「村の時計」
「或る男の肖像」
「米子」――を同じ流れにある詩群として見てきましたが
最終詩「蛙声」へと繋がっていくもう一つの流れに
「ゆきてかえらぬ」を起点として
「幻影」
「あばずれ女の亭主が歌った」
「言葉なき歌」を通じる一群があります。

これら詩のモチーフとなっているのは
言葉や詩や詩人といった「表現」に関わるコトです。

「ゆきてかえらぬ」の僕は
不思議な公園の中にいた夜に
銀色に輝く蜘蛛の巣を見ます。

「幻影」の私の頭の中には
薄命そうなピエロが棲んでいて
パントマイムで何かを必死に伝えようとしています。

「あばずれ女の亭主が歌った」の亭主は
病院の淡い匂いに引き込まれます。

「言葉なき歌」のおれが待っているものは
なんら具体的な形を指示されませんが
おれ(=詩人)がもっとも成し遂げたい重大なコトのようです。

この重大なコトは
「蛙声」でよりいっそう具体化されることになります。

「言葉なき歌」に
「言葉」を具体的に示すものはありませんが
タイトルになっていることから
詩の中で「あれ」と表現されているものが
「言葉」や「歌」に関する何かであるのは確実なことです。

このネーミングには少なくとも
詩人が影響を受けたフランスの詩人、ポール・ベルレーヌに
詩集「言葉なき恋歌」Romances sans parolesがあり
その影がこのタイトルにあることが見えます。

 ◇

その2

「言葉なき歌」には
いくつかの指示代名詞や
場所・方角を表わす名詞(句)・形容詞が使われ
近くから遠くから
本体(場所)に代わってその内容が指し示されますが
本体の内容は具体的に示されるところまでいきません。

「あれ」
「ここ」(此処)
「あすこ」
「とおいい」(遠いい)
「遙か」
「彼方」
「その方」
――がそれですが
なんといっても重要なのは
「あれ」と「ここ」です。

「あれ」は遠いところにある
「あれ」は遠い彼方で夕陽にけぶっている
「あれ」は号笛(フィトル)の音のように繊弱
「あれ」は煙突の煙のように、茜の空にたなびいている

――が「あれ」の状態ですが、

「ここ」は空気もかすかで蒼く、葱の根のように仄かで淡い状態で、
根気強く待っていなければならず
待ってさえいれば
そのうち喘ぎも平静に復すような場所です。

「あれ」を「ここ」で「待つ」ことの大事さが歌われるのですが
「待つ」というのは
急いではならない
娘の眼のように遙かなものを見るように見やってはならない
その方へ駆け出してはならない
――という否定形でのみ説明される受動的な行為です。

そのようでありながら
堅固な意思を試される「主体的営為」のようでもあり
詩人はそのようにでもしなければ
詩の言葉などが生まれることはないとの確信を記述しているかのようです。

「あれ」は当面「あれ」としか言いようにないコトなのですが
詩はそれを言い表わすことがミッションであり
ミッションなどと概括した途端に
その内容は消えていってしまったり
言い表そうとしたときにすでに別物に変化してしまう場合が多いから
それ「以前」の「それ」を言い表わすためには
まず「感じ」なければならない――。

 

「言葉なき歌」は
中原中也が「芸術論覚え書」で綿密に述べている詩論の
実践例のような詩です。

その3

「芸術論覚え書」は
昭和9年(1934年)12月から翌10年3月に書かれたらしいことが分かっています。
「山羊の歌」刊行後で
この期間に詩人は生地・山口に帰省中でした。

内容は「名辞」「名辞以前」「現識」という概念を軸にした
詩論であり硬軟の混ざった芸術論であり
第一詩集をようやく発行し
さらに本格的な詩活動へ乗り出そうとする詩人の意気込みに満ちていて
折りあるごとに引用され照会されるこの詩人独特の表現論になっています。

「言葉なき歌」は
他のいくつかの詩作品とともに
この詩論・表現論そのものを韻文=詩で展開したものといえますが
「芸術論覚え書」が「山羊の歌」刊行直後に書かれたのに対し
詩人の死の直前(最晩年)に作られた点に注目したいところです。

詩論の詩である「言葉なき歌」に別格の趣(おもむき)があるが
それは何か――。

「言葉なき歌」ははじめ「文学界」の昭和11年12月号に発表され(第1次形態)、
昭和12年8月から9月の間に行われた「在りし日の歌」の最終編集過程で
わずかに手直しされて「永訣の秋」に収録されました(第2次形態)。

「ランボオ詩集」の翻訳・発行を昭和12年9月に果たし
ただちに「在りし日の歌」編集・清書に取り組み
小林秀雄にその清書原稿を託したのも9月という
慌ただしい日々を詩人は鎌倉の地で送って
それらを成し遂げた後で結核性脳膜炎を発病
10月22日に永眠します。

「ランボウ詩集」と「在りし日の歌」には「後記」が添えられ
「ランボウ詩集」は「昭和12年8月21日」、
「在りし日の歌」は「1937、9、23」と
どちらにも日付けが記されました。

死の直前といってよい時期に
散文による後記が二つ残されたのです。

「在りし日の歌」の後記は
「おおわが東京! さらば青春!」と結ばれたわかれのあいさつみたいなものですが
「ランボウ詩集」の後記は
ランボーおよびベルレーヌに言及した表現論を含み
その意味では「芸術論覚え書」と連続しています。

分析を試みればこのようなことになりますが
「言葉なき歌」を書いた詩人の頭の中には
「ランボウ詩集」の後記で書いたランボーとベルレーヌのことが駆け巡っていた
――というようなことが言えるのではないでしょうか。

すぐれた小説や
すぐれた絵や
すぐれた音楽や
あらゆるすぐれた芸術は
その作品の中に自ずと
小説とは何か
絵とは何か
音楽とは何か
芸術とは何かという問いを含み
それに答えようとしていることがよくありますが
「言葉なき歌」は
そうした問いと答えとを内包する詩です。
それを書く動機にランボーとベルレーヌがあったということになります。

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

 

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた

その4

はじめに「芸術論覚え書」が書かれ
次に「言葉なき歌」(第1次形態)が書かれ
その次に「ランボウ詩集」の後記が書かれた――というのが制作順序だったようですが
「言葉なき歌」(第2次形態)は「在りし日の歌」の最終編集過程で若干の修正を経て選ばれたのですから
「ランボウ詩集」の後記が書かれたのより後に詩人の眼を通過したと見ることもでき
そうであれば「芸術論覚え書」から次に「ランボウ詩集」の後記へ、
最後に「言葉なき歌」へという順に制作されたと考えることもできます。

しかしこのように厳密に制作順序を特定するということは
たいした問題ではないのかもしれません。

「芸術論覚え書」
「ランボウ詩集」の後記
「言葉なき歌」
――に展開されている詩論や芸術観は
「山羊の歌」以前と「在りし日の歌」以後という期間分類ができるとすれば
明らかに「在りし日の歌」の期間のものでしたから。

これらの詩論や芸術観の出所は
同じところにあったと言えるものですから。

ここで「ランボウ詩集」の「後記」を読んでみます。

 ランボオ詩集
 後記

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつとヹルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯ヹルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。

 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
                                                    〔昭和十二年八月二十一日〕

 

※「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」(角川書店)より。「行アキ」を加えてあります。編者。

その5

「ランボウ詩集」の「後記」の後半部は
中原中也のランボー論が展開されています。
そして少しはベルレーヌ論も混ざっています。

その中のはじめの部分の

パイヤン(異教徒)の思想だ
彼にとつて基督教とは、多分一牧歌
感性的陶酔
陶酔の全一性といふことが全ての全て
悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した
人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。

――などというランボー「総論」はひとまず置いておきます。

「言葉なき歌」にピタリとクロスするのは

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

――と述べられた部分でしょう。

さらにつづめれば、このくだりの中の

一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きもの

――という一節です。

「言葉なき歌」の「あれ」が
この一節にピンポイントで照応(クロス)しています。

「あれ」は、

かつて一度洞見したことのある(一度見抜いたことのある)
忘れようにも忘れられないし、またもう一度それを表現することもできない
存在することは確かなのだけれど「そこ」へ行く道がわからなくなった宝島のようなもの

――と同じものではありませんか!

 

さらにつづめて言えば
「あれ」とは「宝島」のことになります。

その6

「言葉なき歌」の「あれ」に似ている使い方をされている詩が
いくつかあることが分かっていますが
そのうちの一つ「現代と詩人」を読んでみましょう。
「新字・新かな」表記にしてあります。

現代と詩人
 
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。

――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考うべきものはある。

とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。

私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

   2

われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国の春をかんがえる、春の訪れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌《かお》をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがえる。

私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふかい)の、陳列みた
 いなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシ
 スなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。

 ※《 》内のルビは原作者によるもの、( )内は全集編集員会によるものです。編者。

「言葉なき歌」が「文学界」に発表されたのが
昭和11年の12月号で
この詩「現代と詩人」も同じ12月号の「作品」に発表されています。

二つの詩はメディアは異なるけれど
同年同月号の文芸誌に発表されたということですが
決定的に異なるのは
昭和12年9月に行われた「在りし日の歌」の最終編集で
一つは選ばれ一つは選ばれなかったということです。

「言葉なき歌」が「永訣の秋」へ配置されたということは
「在りし日の歌」という詩集の編集意図をインスパイアーされて
変成されていく過程を経たという意味をもちます。
昭和12年9月の詩人の創意を
「言葉なき歌」は吹き込まれて「再生」されたはずの作品なのです。

この違いを踏まえたうえで
二つの詩を読んでみれば
どれほど近似しているかも分かることでしょう。

特に「1」の第1連第4行に現われる指示代名詞「それ」は
「言葉なき歌」の「あれ」の至近距離にあることを理解するでしょう。

しかし、ここで注目したいのは
最終連の

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。

 

――です。

その7

中原中也が「現代と詩人」に

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。

――と記したとき念頭にあったのは
真っ先にアルチュール・ランボーとポール・ベルレーヌの二人の詩人のはずでした。
ほかにボードレールやラファルグや
ネルバルやデボルト=バルモールがいたとしても
この二人は別格の存在のはずでした。

「ランボオ詩集」の後記のランボー論は
ランボーを論じるためにはベルレーヌを登場させないではいられないものでした。
この二人の詩人が
「あれ」=「宝島」への最も近い存在でした。

ここでベルレーヌの「言葉なき恋歌」をすこしだけ齧(かじ)ってみたいのですが
中原中也の翻訳はありませんから
鈴木信太郎訳で読んでみます。

鈴木信太郎訳
言葉なき恋歌より

そは やるせなく蕩くる心地

           野には風  
           息を已む。
              (ファヴァアル)

そは やるせなく蕩(とろ)くる心地
恋痴(し)れし身のつかれ、
微風(そよかぜ)に抱擁(だきし)められし
森の戦慄(おののき)、
鈍色(にびいろ)に翳(かす)む梢に
幽(かそ)けくも歌ふ声なり。

おお 爽やかの繊弱(かよわ)き私語(ささやき)。
そは ひそひそと しのびしのびに、
そは 草の そよぎて息も絶え絶えの
粛(しめ)やかの泣く音に似たり……
せせらぎの水の底なる 礫(さざれいし)の
にぶき揺鳴(ゆらぎ)と 君は言ふらむ。

おろ睡る嘆きの中に
すすり哭(な)く この霊魂(たましい)は、
われらが心と 思(おぼ)さずや 君。
わが心と君が心よ、心より
この暖かき夕闇に 仄(ほの)かに昇り
煙と消ゆる つつましき祈の歌。

(「ヴェルレエヌ詩集」岩波文庫、1987年 第31刷より、一部、新漢字に改めてあります。)

中原中也が鈴木信太郎のこのベルレーヌ訳を読んだという形跡はありませんが
ベルレーヌ最高峰の「言葉なき恋歌」に目を通したことは間違いありません。

ここで注目したいのは
冒頭や各所に出てくる「そ」という指示代名詞です。
古語の「そ」ですが
現代語で「それ」です。

「言葉なき歌」を書いた中原中也の頭の中で
ランボーとベルレーヌのことが駆け巡っていたのであれば
この「そ」が何度となく去来したことも想像に難(かた)くはありません。

 

「言葉なき歌」には
もろにランボーとベルレーヌの影があるのです。

 


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