Tableau Triste
A・O・に。
私の心の、『過去』の画面の、右の端には、
女の額(ひたい)の、大きい額のプロフィルがみえ、
それは、野兎色(のうさぎいろ)のランプの光に仄照(ほのて)らされて、
嘲弄的(ちょうろうてき)な、その生え際(ぎわ)に隈取(くまど)られている。
その眼眸(まなざし)は、画面の中には見出せないが、恐らくは
窮屈(きゅうくつ)げに、あでやかな笑(えみ)に輝いて、中立地帶に向けられている。
そして、なぜか私は、彼の女の傍(そば)に、
騎兵のサーベルと、長靴を感ずる――
読者よ、これは、その性情(せいじょう)の無辜(むこ)のために、
いためられ、弱くされて、それの個性は、
それの個性の習慣を形づくるに至らなかった、
一人の男の、かなしい心の、『過去』の画面、……
今宵も、心の、その画面の右の端には、
その額、大きい額のプロフィルがみえ、
野兎色の、ランプの光に仄照らされて、
ランプの焔(ほのお)の消長(しょうちょう)に、消長につれてゆすれている。
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ひとくちメモ
「Tableau Triste A・O・に。」は、
「Tableau Triste A・O・に。」は、
「悲しき画面」のタイトルを
フランス語に変えた作品で
内容は同じものです。
「早大ノート」に書きとめた
「悲しき画面」を
昭和6年12月4日付け
安原喜弘宛書簡に
同封した時
「Tableau Triste A・O・に。」と
改題したのです。
このため、
「新編中原中也全集」の編集委員会は、
「未完詩篇」の編集にあたって、
「早大ノート」中の「悲しき画面」と
「草稿詩篇(1931年—1932年)」中の
「Tableau Triste A・O・に。」とを
独立して扱うことにしました。
これを受け取った
安原喜弘は
十二月四日付でまた一篇の美しい詩が送られている。それは『Tableau Triste』と題され、『A・Oに』と付記されている。『A・O』については私には心当りがない。この詩も彼によって未発表のまゝに遺された詩の一つである。
(1979年、玉川大学出版部、「中原中也の手紙」より)
——と記しています。
いっぽう
安原の「中原中也の手紙」が刊行される前に
この詩の改題について
大岡昇平は
「Tableau Triste」の題名を採用したのは、友人に送ることを一種の公表と見做す方針からである。(1967年、「詩Ⅱ」)
——と断言的に書いています。
両者の解釈の違いがここにあるのですが
そのこと自体が
一つの詩作品の味わいを
豊かにする材料になっているとも言えるようなのは
きっと
詩の力あればこそだからに違いありません。
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