Qu'est-ce que c'est?
蛙が鳴くことも、
月が空を泳ぐことも、
僕がこうして何時(いつ)まで立っていることも、
黒々と森が彼方(かなた)にあることも、
これはみんな暗がりでとある時出っくわす、
見知越(みしりご)しであるような初見であるような、
あの歯の抜けた妖婆(ようば)のように、
それはのっぴきならぬことでまた
逃れようと思えば何時(いつ)でも逃れていられる
そういうふうなことなんだ、ああそうだと思って、
坐臥常住(ざがじょうじゅう)の常識観に、
僕はすばらしい籐椅子(とういす)にでも倚(よ)っかかるように倚っかかり、
とにかくまず羞恥(しゅうち)の感を押鎮(おしし)ずめ、
ともかくも和やかに誰彼(だれかれ)のへだてなくお辞儀を致すことを覚え、
なに、平和にはやっているが、
蛙の声を聞く時は、
何かを僕はおもい出す。何か、何かを、
おもいだす。
Qu'est-ce que c'est?
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ひとくちメモ
「Qu'est-ce que c'est?」は
「ケ ス クセ?」と発音するフランス語で
「それは何?」の意味です。
英語の「What is it?」。
昭和8年(1933年)5―8月制作(推定)で
前3作に続いて
「ノート翻訳詩」の中で蛙を歌った詩の
最後の作品になります。
フランス語の修得をはじめてから
何年ほどの月日を経たのでしょうか。
詩人は
この詩を書いた年
昭和8年(1933年)の3月に
東京外国語専修科(仏語)を修了しました。
同校への入学は昭和6年(1931年)4月でした。
前年昭和7年(1932年)5月ころからは
自宅でフランス語の個人教授をはじめています。
その前々年の昭和5年(1930年)秋には
阿部六郎の家に寄宿していた吉田秀和を知り
フランス語を教えた
という有名な話もあります。
昭和4年(1929年)夏には
彫刻家・高田博厚を知りますが
その高田が渡仏するのは昭和6年(1931年)2月で
このことで詩人は
フランス行きの願望をいやましに募らせました。
古くは
京都で富永太郎らに
フランス象徴詩の存在を教わったのにはじまります。
上京後は富永を通じて知った
小林秀雄をはじめ
当時、東大仏文科の学生であり
のちに文学、学術、文化、芸術、政治……
各方面で活躍することになる
錚々(そうそう)たる顔ぶれとも接点をもち
学生のみならず辰野隆、阿部六郎ら
教授・教官との交流も広めます。
音楽集団「スルヤ」も
文学同人誌「白痴群」も
知的文化的エリートの集まりでした。
上京翌年の大正15年・昭和元年(1926年)9月には
日本大学予科へ入学
すぐに退学してしまいますが
またすぐにアテネ・フランセへ通いはじめ
河上徹太郎を知るのもこのころですし
ベルレーヌの翻訳の発表は
昭和4年(1929年)にはじめています。
この詩「Qu'est-ce que c'est?」を作ったころには
同人誌などに盛んに翻訳を発表
12月には
「ランボオ詩集(学校時代の詩)」(三笠書房)を刊行します。
おおざっぱに見ても
詩人のフランス熱は
思いつきといったものではなく
詩を書くことと
直に結びついていました。
詩人として生きていく経歴の中で
詩作だけでは生業(なりわい)が成り立たないことを
骨身にしみて感じ続けた詩人ですから
フランス(フランス語)は
生きる糧(かて)になり得るという
希望のようなものでした。
さて
「Qu'est-ce que c'est?」という
蛙を歌ったはずの詩は
いま
蛙の声が喚起する「何か」について
言い及んでいます――。
その「何か」とは
蛙が鳴くこと
月が空を泳ぐこと
僕がかうして何時までも立つてゐること
黒々と森が彼方(かなた)にあること
……
――のような
常住坐臥(じょうじゅうざが)のこととも異なる
もっと違う何かです。
詩人という存在というよりも
詩人が、人間が、
生きているということの
核心にあるものへ
触れてくる何かのことのようです。
名づけ得ないその「何か」は
Qu'est-ce que c'est?と
フランス語で問うしかないほどに
遠くにあるような
近くにあるような……
とらえがたいもの? こと?
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